グレタさんとは違い、「大人な」私たちが避けては通れない難題 その2

共有地の悲劇』の解決手法を、国際関係法へと昇華させる方法。


グレタさん「学位必要ない」、米財務長官「大学で経済勉強して」に反論 写真7枚 国際ニュース:AFPBB News
うーん、まぁ、そうねえ。個人的には経済学よりも法学――国際法や条約なんかの方を推すかなあ。国家の自主権を拘束しなきゃ無理でしょ。やっぱ地球政府やな!

 ムニューシン氏は、ダボス滞在中も米国の政策を激しく批判してきたトゥンベリさんが化石燃料への投資を即中止するよう求めていることについて問われると、「大学に通って経済を勉強してから、説明してほしいものだ」と記者団に述べた。

 これに対しトゥンベリさんは、いつものようにツイッターTwitter)で手厳しく反論。「私のギャップイヤー(1年間の休学期間)は8月に終わる。しかし、1.5度目標を実現する残存炭素予算と、化石燃料への補助金と投資の継続がおかしいことを知るのに大学の経済学の学位は必要ない」と主張した。

グレタさん「学位必要ない」、米財務長官「大学で経済勉強して」に反論 写真7枚 国際ニュース:AFPBB News

ただ経済学を指定したのもそこまで間違ってはいないと思うんですよね。
それこそ私たちの信じている資本主義が、現在の気候危機に繋がるような共有地の悲劇のような問題を招くのはほとんど必然であり、「いつか人類すべてに破滅をもたらす」と看破した共有地の悲劇という概念を生んだ生物学者のギャレット・ハーディンや、その理論をさらに発展させた経済学者のマンサー・オルソンでもあったわけでしょう。
これまでの日記でも何度か書いてきましたけども、気候危機を叫ぶグレタさんにたとえばオルソンの『集合行為論――公共財と集団理論』などを読んで勉強した方がいいよ、というのはやっぱり正論だとは思うんですよね。
いや、もちろんこれってかなり有名な古典的名著ある以上、彼女は既に読んでいる可能性はありますけども。
ただそれを読んだ上で現状のような発言をしているならばちょっとアレかなあ。
彼の理論は、経済的のミクロな個人の「合理的振る舞い」という枠を越えて、政治においてもミクロな個人の合理的振る舞いという議論にまで影響を与えることでまさに現状の環境問題対策が停滞する構図の多くを説明できるものでもあるわけだし。


それこそ共有地の悲劇については、ハーディンは当時から既にこのように述べていたわけですよ。

人間はみな、際限なく家畜を増やさざるをえないシステムに縛り付けられている――かぎりあるこの世界で。
共有地の悲劇を信じる社会で誰もが自己利益の追求に血眼になれば、その先にあるのは破滅である。コモンズの自由がすべての人に破滅をもたらすのだ。

「なぜ化石燃料補助金や投資するのか?」という彼女の質問に応えるには確かに経済学で可能だよね。
「私たちはどこまでも家畜を増やさざるを得ない資本主義に縛られているから」
他者が止めていないのに、何故自分だけが損を被るようなことをしなければならないのだ、なんて。


ともあれ、オルソンは上記著作の中で身近な事例を挙げて、グレタさんの訴える気候危機対策が進まない理由にも繋がる構図について説明しています。
本邦にもネトウヨとまではいかなくても、「日本(自国)だいすき!」「愛国心こそ重要だ!」と言う立派な人たちは少なくない。ところが、それほどまにで愛しているはずの国家の根幹を支える『税収』に自発的に貢献しようとする人は、前述のような事を叫ぶ人たちと比較すれば限りなく少ない、と看破しているわけですよ。
つまるところ、右側な私たちはいくら口では「国を愛せ!」と叫んでみても、しかし実際には自分の身銭を切る気はない。すっごいお国を愛しているのにね。
――古今東西、世界中のどこの国家にもそうしたことを叫ぶ人たちは居ただろうけれど、しかしそうした人たちが実際に進んで自発的に国家の税収を支えたことは一度もないのだ、と。
つまり、これは何も「国を愛せ!」彼ら彼女らだけが口だけクソ野郎というわけじゃなくて、それは彼ら彼女らがただただ合理的である、ということの説明に過ぎないんですよ。
その集団が大きくなればなるほど、そこで合理的な個人の振る舞いとしては、わざわざ自分が進んで負担を背負うようなことはしなくなる。
「みんな」がやればいいのであって、「わたし」だけがやる必要はない、なんて。
かくしてフリーライダーは生まれる。


転じて、気候危機対策が進まないのも同様に、私たちが「愚か」であるからじゃないんですよね。
気候危機がきけんであぶないって認識することと、そこで対策が進むかどうかは別問題なんですよ。
むしろ私たちが悲しいほどに合理的であるからこそ、「小さな個人である自分はわざわざコストを支払うことはない」と選択することになる。
だってどうせ平凡な庶民である自分が幾ら身銭を切ったってたかが知れているもんね。
そして、その実感は、実際に、正しい。


グレタさんのああまで激しく怒っていながら、しかしその声が真に届かないのってつまりそういうことでしょう。
私たちは「合理的に考えて」気候危機に際してなにも自分だけが特別に負担を背負うことはない、更には自分の行動だけが変わっても地球全体としては何も変わらない、と正しく考えている。
――そしてそれは確かにその通りでもある。自分の一票だけで政治が変わるなんてあることないんですよ。
そんなのおためごかしだってみんな解ってる。
であればこそ、こうしたミクロな個人の意識がまずあってこそ、私たちの政治はそうそう変わらないし、地球という人類社会最大の共有地は悲劇に見舞われることになる。


この構図を解決することこそ、大学に属する賢い人たちに求められている事でもある。
しかし悲しいかな現状でその叡智が生まれていないということは……、やっぱり大学ってむだやな!
こうなったらイチかバチかで、「地球が危ないのだから、全ての人類から経済的自由を剥奪せよ!」という強引なドリブルかな!
それって恐怖政治か全体主義っていうんですけど。
(長くなったのでこの辺はまた次回)






さて置き。蛇足あるいは老婆心ながら最初のネタに戻ると、そもそも大学で学ぶことってただ『知識』の有無というよりは、その効率的なインプット・アウトプットの手法を学ぶことでもあるんですよね。
むしろ「大学で学ぶ」ことの本質はそこにあると言ってもいい。ただ知識を得るだけなら別に大学に行かなくなっていいんですよ。
しかし、そこから更に進んで自分自身で知識や知見を生み出す、あるいはそれを論文やプレゼンで広く公に発信することを学ぶことこそ「大学で学ぶ」ことの価値があるわけですよ。
死ぬほど耳が痛い
俺はなぜあんな無駄な時間を……
オッサンの後悔はさて置くとして、もしかしたらこの人はそういう意味で、本当にグレタさんのことを考えてこの発言をしたのかもしれないね。

在学中彼はメディアから「構内でポルシェを乗り回す富豪の息子」と評されていた[17]。

スティーブン・ムニューシン - Wikipedia

やっぱなさそう。


学者ではなくアクティビストになりたいのならば、やっぱり学位は要らないと思いますけど。
まぁその意味では、他者に気候危機問題の解決策を依存しておきながら、その他者たちの合理性を批判しているグレタさん、という自己矛盾あるよねえ感じざるをえないと個人的には思うところではあります。
「どうにか解決しろ!」
「勝手なことをするな!」
うーん、朝令暮改な無能上司かな?
――でもまだ子供だからセーフ!


当日記はグレタさんを応援しています。
がんばれグレタさん。