私たちはどこまでして生きるつもりなのか その2

「持つは恥だが役に立つ」となりつつある核兵器について。


核兵器なき世界の実現を 6日、78回目原爆の日:時事ドットコム
ということで今年も恒例の原爆の日を迎えたそうで。

 ロシアのプーチン大統領を念頭に「核による威嚇を行う為政者がいる現実を踏まえ、世界中の指導者は核抑止論は破綻していることを直視し、私たちを理想へと導く具体的な取り組みを早急に始める必要がある」と訴え掛ける。

核兵器なき世界の実現を 6日、78回目原爆の日:時事ドットコム

ガチのマジで核兵器の脅迫をしてしまう時代になってしまったこともあって、まぁ色々とポジションを修正しなければいけなくなったのは間違い無いよねえ。
それがこの方の仰る通り、核なき世界の実現を進めるのか、あるいはまた別の選択肢へと向かうかは別として。


核兵器がマジで脅迫の道具として使われる時代において、私たち日本人はどこまでして生きるつもりなのか、なんて。


ある種冷戦時代の方が話は単純だったんですよ。より単純化された世界観であった故に、一方の軽率な行動はそのまま世界的な核戦争へと一直線に繋がりかねない恐怖感が現実のモノとしてあった。その恐怖感は皮肉にも安定性にある程度寄与していたのも間違いないわけで。
ところが現在の国際関係というのは、幸か不幸かそうではない。
喜ばしいことに米露全面核戦争というのは過去のモノになった。ということはその『恐怖感』も失われつつあるわけで……。


かくしてまさにウクライナに限定された状況においては、プーチンのロシアによる(半ば軽率のようにすら見える)核兵器による脅し、というのはNATO参戦を予防しているという点で現実に機能してしまっているわけで。
――そしてそれは逆にNATO側から見ても同様で、プーチンは明らかにウクライナとは違う配慮をポーランド等への周辺国に丁寧にしている。
現代世界というのは――もちろん私たち日本人も同様に――意識的か無意識かはともかくとして、もう既に上記『核による威嚇』の有効性を容認してしまっている。割とコレは広島長崎の核兵器の登場以来、間接的どころかほとんど直接的にその有効性が証明されてしまったという点でエポックメイキングな出来事とすら言えてしまうかもしれない。
もちろんこのことで私たち日本が核武装論に傾くとは個人的には到底思えませんけども、しかし北朝鮮のような新たな核開発にガチで取り組む国々の『教訓』を現在進行形で容認し続けているのは間違いないでしょう。
持つことは恥とされているものの、やっぱり役になっているのではないか、なんて。


このように私たちは、その核兵器の有効性を認めてしまっていながらその廃絶を叫ばなくてはいけない、というこれまでとは違い(致命的な矛盾という程ではないしろ)かなり難しい立場に立たされてしまうようになってしまった。
それは以前から日本の核議論において指摘されていた別の矛盾である「核の傘にいるくせに」というある種正論な指摘よりも、こちらの方がずっと暗い影を落とすと個人的には思うんですよね。
あれから78年経った2023年において、悲しいことに、また、核兵器の有効性が証明されてしまった。


はたして私たちは「持つは恥だが役に立つ」となりつつある核兵器を捨てることができるだろうか?
みなさんはいかがお考えでしょうか?