どこまで自分を捨てられるか

電車の中で咳こんでみた
ネタにマジレスしつつ、ちょっと考えてみる。


「生きていく上でこれをやったら自分の利益になるのは知ってはいるが、自尊心・他人の視線などが許さない」
という事は確かにあると思う。


例えば、
・満員電車でわざと咳き込んでみたり
・満員電車の中でわざと人に寄りかかってみたり
・ヤクザ風な格好で人を威圧してみたり
・某サイゼリヤで返金詐欺をやってみたり
・必要のない生活保護等を受けてみたり
それこそピンからキリまである。


上記を生活の知恵と呼ぶか、恥ずかしい行為と取るか、ここでその是非はともかく。
つまりシステムの穴を突くような行為。
いわゆる法的には縛られない、その代わり自尊心・他人からの視線を犠牲にしてどこまでいけるか。

やらない「美徳」なのか、やる「知恵」なのか

ここで重要なのは、これらはマイノリティであるからこそ意味があるのであって、
全員が全員上記のような振る舞いをした場合には成立しないし、あまつさえそのシステム自体が崩壊したりもする。


解っていてもやらない事を美徳とするのか。
それともどんな事をしても他人を出し抜こうとするのか。
この美徳の総量こそが「社会の穴の許容量」「社会の遊び」「社会の成熟度」とか言うのかもしれない。


これらの行為に対して善し悪しをどうこう言うつもりはないけど、
それが成立するのは大多数の「やっていない」人達が居るからだ、という事は考えておくべきじゃないかと思う。



まぁそれさえも「馬鹿な奴らを出し抜いてるんだ」って言われれば、確かにそうかもしれないけれど。