何故味方のアイツが憎いのか

ネトゲでよくある話。味方同士の憎み合い、足の引っ張り合い、晒し合い。
別にNPCなモンスター以外に戦う相手が居ない場合だけじゃない。
それは、例えば国家戦、種族戦、そうしたシステム設定上の敵対PCが居たとしても、それでも尚、味方同士の憎み合いは止まらない。
むしろそれはよりひどい。
敵対PCそっちのけでの、味方同士の煽りあい。晒しあい。憎み合い。


何故人は内ゲバに走ってしまうのか。


そもそも味方と敵ってなに?

とりあえず上記は置いといて、味方と敵の話。


さて、根本的な所からいけば、「味方と敵」というよりは「自分と他人」しか居ないわけで。
自分と他人の違いを認識してしまう時点で全てが始まってしまう。
その差異こそが、自分が自分である証明とか、自己同一性とかアイデンティティとか言ったりするわけだけど。
こうして自分と他人と比較する事、自分自身を確立する過程で、更に生まれてしまうものがある。


それが他人との比較の結果、自分と他人の評価の差。その結果としての優劣。
そして競争。


これは「自分」だけじゃなくて「自分達」でも同様に発生する。
比較の結果として、よく似ている物同士の一体化、統一化。そして味方が生まれる。
また同じように、自分達の集団・グループの存在意義としての、他集団との違いとは何か。
そしてどう評価されるか。どう競争されるか。


もし競争するまでもなく、自分達の似ている所が見つけられれば、それは更に大きな集団となれるかもしれない。
しかし相容れなければ、競争の結果として、多かれ少なかれ反目が生まれてしまうわけだ。
差異の優劣=自分・自分達の存在証明の為に。


まぁ有名どころで言えば、某フロイトさんが仰るように、人間には二つの本能があるわけで。
「統一し一体になろうとする本能」と「破壊し殺そうとする本能」
結局、私たちは平和が戦争しあうほど大好きなんですよね。

何故往々にして、「味方」が最大の敵となるのか

本題。
敵が生まれてしまう本能は上記に書いた。
では、何故味方がその敵となってしまうのか?


結論から言ってしまえば「敵は私達に似ていなければならないから」という事になる。


例えば、
FFプレイヤーがROプレイヤーの敵となる事はないし。
intelAMDSeagateをライバルと見なす事はないし、
逆にSeagateやHitachiユーザーがCPUベンダーなintelAMDのユーザーにライバル心を抱く事もない。
自民党支持者が民主党支持者を政権争奪のライバルと見なす事はあっても、アメリカ民主党に対してはそんな事はない。


敵とは、同じ舞台・世界に立った同士でなければ成立しないのだ。


前述したように、敵とは「我々とは○○が違う」存在である。
だからこそ、「○○が違う」為にはそれ以外の部分のある程度共通なものがなければ、その「○○の違い」は成立しなくなってしまう。


私達は自分(達)とは違う何かを、
(それは自身が否定した一面であったり、自身の誇るべき一面であったり)
意識的無意識的に問わず、「彼らとは違う」と証明し続けなければならない。
自己証明、あるいはアイデンティティの為に。
このように考えると、私達は常に敵を探し求めなければならない。同じ舞台に居る私達に似ている誰かを。


結局、ネトゲでこうした味方の憎しみ合いがより強く出るのは、
より我々に似ていてより同じ舞台だったから、という事になる。


またもやネトゲのシステム上の限界オチ

国家別、種族別、こうしたシステムを持ちながら敵味方にシステム的な対立関係を発生させるネットゲームは良くあると言っていい。
しかしながら多くの場合で、味方同士の争いの方がひどいものになる。
ゲーム上のシステムで設定された対立よりも、
人間の本能的な「より似ていて、より同じ舞台の敵」への敵対心が勝ってしまうからだ。



ネットゲームにおいて、システム的により強く対立関係を発生させようとすれば、お互いの競争要素以外での接点を減らさなければならない。
しかし、その事は同時に、その敵対する同士を「同じ舞台」から遠ざけてしまっているのだ。
そして更に、ゲーム上のボリューム的な要請から、各陣営の独自の特徴を付ける事によって、「我々とは(あまり似ていない)違う存在」という要素も。


こうしてネットゲームにおいては、多くの場合で、ゲーム上の敵対関係を鮮明にすればするほど、
皮肉な事にゲーム設定上の敵対関係よりも、むしろ「より似ていてより同じ舞台に居る」味方へとその敵対心が向かってしまう事になる。


私達の多くは、
どうでもいい存在を憎むほど悪魔のような心を持っていなかったし、
かといって近くの敵を無視できるほど大人ではなかったんですよね。
で、今のような状況になってしまったと。


がんばれニンゲン!