「殺人禁止」に至る新旧二つの道

一方は(功利主義的な)社会安定目的の帰結であり、もう一方は(人間主義的な)共感精神の帰結として。


「会いたいと誘った」 佐世保高1殺害、計画的か  :日本経済新聞
また悲劇、長崎県「命の教育」届かず : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
ということでいかにもいかにもな殺人事件ということで大盛り上がりの佐世保のアレであります。

 長崎県佐世保市の高校1年の女子生徒(15)が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された同級生の女子生徒(16)が「会いたいと自分から誘った。殺すために自分の部屋に2人で行った」と供述していることが29日、捜査関係者への取材で分かった。県警は計画的な事件とみて裏付けを進める。

 県警によると、2人は約1週間前から遊ぶ約束をしていた。遺体のそばからハンマーやのこぎりが押収され、生徒が「自分で買った」と供述していることも既に判明。県警は生徒が周到な事前準備の上で自室に招き入れたとみている。

「会いたいと誘った」 佐世保高1殺害、計画的か  :日本経済新聞

まぁ確かにニュースを見る限り某執行対象になってしまってもおかしくない位には係数高いよね。


また悲劇、長崎県「命の教育」届かず : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
ともあれ、今回の件を受けて一部で盛り上がっているのが「命の教育」に関しての「なぜ人を殺してはいけないの?」議論であります。まぁ政治哲学や倫理ではよくあるお話ではありますよね。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」のマジレスを考える前編 - maukitiの日記
「なぜ人を殺してはいけないのか?」のマジレスを考える後編 - maukitiの日記
ちなみにうちの日記でも4年前に若気の至り気味にそんなことを書いていて、恥ずかしさをガマンしながら読んでも(むしろ文体がですます調してなくて辛い)まぁそれなりに珍しく今でも同意できるお話ではあるかなぁと。つまり、後天的に『殺人禁止』が広まったと言うよりは、社会集団の生存競争に有利だったからこそ現在にまで残っている、というお話。禁止しなかった社会よりも、禁止した社会集団が成功=(軍事的経済的に)成長できた為にそうした社会規範をより強く持つ社会集団が生き残ったのだと。



でもそれだけじゃ寂しいので現時点の知恵を加えての、以下適当なお話。

さて置き、重要なのは少なくとも近代社会以前までは「敵を殺す」ことと「味方を殺す」ことに明確な差があったことかなぁと。隣人は愛するべきだけど、敵や異教徒や異邦人はぶっ殺しても構わない、というのは概ねグローバルスタンダードだったわけで。そんな『殺人禁止』は社会集団にとっての適切な生存戦略であったことは事実でしょうけども、ただ現在でも同じくそうした考えの下に殺人禁止が支持されてるのかというと、やっぱりそうではないと思うんですよね。
――つまり、似たような結論ではあっても、時代の変遷によってその支持理由が変化した。
宗教や封建制が衰退する近代以降、多くの社会では「大きな物語」ではないより個人的で世俗的な生活感覚=共感精神=ヒューマニズムがより重要な価値基準として登場するようになるわけであります。それは旧来あったような敵味方の区別はない。同じ人間が人間である故に共感し、だからこそ一方的に殺すことは許されない、という価値観。
現在の私たちが『教育』されるのは、むしろこうした論理の方ですよね。人間が人間である故にそれは許されない。まぁぶっちゃけ何の説明もしていないも同然なんですが、そもそも人間主義は厳密には論理ではなく、自身の感覚や感情を土台にした精神から訴えてくる命令でもあるので、個人的にはまぁそんなモノかなぁと思います。理屈じゃねぇんだ感。


ちなみに事実上『(社会による)殺人容認』である死刑制度はこうした新旧二つの『殺人禁止』論理の内、実際には社会安定化装置である前者からは容認され、逆に共感精神からすれば絶対悪とされる後者からは否定されている。故に議論が大きく分かれるのだと思います。


『殺人禁止』に至る新旧二つの道。命の教育。個人的にはどちらも理解できるお話であるし、どちらか一方を支持したからといって、もう一方が否定されるような排他的関係でもないと思います。ただ新しいか旧いかというだけ。ということでまぁ自分が納得できる好きな方を選べばいいんじゃないかな。
――ただこのどちらにも同意しない「怪物」というのは人間社会に必ず一定割合で存在するわけですけど、果たして今回の彼女はどうだったんでしょうね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?