しかしここにはネットイナゴなどいない

というわけで某グータン騒動を見ていて考えたこと。


今日もやられやく - FC2 BLOG パスワード認証
http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52351724.html
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1520576.html
こうして挙げられる彼らを馬鹿だと非難することはできる。女性をその処女性によって批判する事は馬鹿げていると。まぁ確かにその通りである。それこそ、これまで無数にあったブログやツイッターでの「炎上」の例のように、どちらに非があるかと言えば彼らにある。


私たちはぶっちゃけてしまえばその正義感や、あるいはメタ規範*1とも道徳的攻撃*2とも呼ばれるような、そんな何かによって自分自身に直接的な利害関係にないはずの問題なのにも関わらず、無邪気に怒りを覚える。
例えば、「某揚げ鳥販売店の調理場ででG様を揚げた」とか「大地震で本気で生きるか死ぬかの生活をしている人々に、千羽鶴をとりあえず送ろうぜ!的な運動」とか「ちょっとブサイクな人びとを晒しあげて芸術性を表現した」の時と同じように。今回もまったく同じ構図で彼らは批判される。馬鹿なことをやっているやつらなので批判しても問題ないと。同時にこれも同じように自分は直接にはまったく被害を受けていないはずなのに。


彼らは馬鹿なので自分には非難する正当な権利があると無邪気に考えてしまう。確かにそれは私たち人間が本来持っている性向を、悪い面から見た一つである。
そしてそれをまた逆側からいわゆる「合理的な」人びとが批判するわけだ。

何故そこまで批判するのか?
お前ら自身が直接被害を被ったわけでもないのに何でそんなに偉そうなんだ?
またネットイナゴか!

といつか見たように。
しかし今回はそんな声はあまり挙がらない。何故ってそれは彼らのことを批判する人びとが、「あいつらの自業自得だ」や「批判されて当然のキモイやつらだ」と考えているから。そこにあるのはかつての炎上たちとまったく同じ構図であり、彼らはどちらも自分たちの正当性を確信している。
結局の所私たちは正義をなす事が、メタ規範を守らせることが、道徳的攻撃が、それこそ本能というレベルで大好きだから。私たちは普段それに批判的な態度を取っていたとしても、しかし少しでも気を抜くとすぐそうした行動に走ってしまう。