一周回って現代風刺に見えなくも……やっぱりなかった

「喜劇は悲劇でもあり、また悲劇は喜劇でもある」と言ったのは誰でしたっけ。


「奴隷のシャチ」解放訴訟の法的根拠 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111028/amr11102814420005-n1.htm
わーたのしそー。ていうかバカだー。おわり。でもそれだけじゃ寂しいので適当に書きます。


さて置き、まぁ何というかこうした人びとを批判することは簡単な話ではありますけど、しかしある面では、彼らの「奴隷のシャチを解放せよ!」な姿は私たちの写し鏡でもあると少し思うんですよね。
確かに彼らのやっていること――現実に『奴隷』となっているような人びとが存在しているにもかかわらず、何故かこうしてその対象を水族館のそれにまで広げようとする彼ら――はバカなことをやっているなぁとは僕も思うわけですけども、しかし彼らの立っている場所、つまり(現実に存在している不義ではなく)自分の目に見える範囲で最も「かわいそうな」ものこそを救済しようとするのって、決して彼ら特有の振る舞いではありませんよね。「動物は人間と違って二心がないからこそ真の救済に値する」というような価値観。まぁ構図としては理解できない話ではありませんけど。
私たちだって、しばしば、その不義の大きさではなくどれだけ「その物語が悲劇として美しいか」で判断しているように。
ただ悪人が騙されているよりも善人が騙されている方がより可哀相だとほとんど反射的に思うし、ブサイクがいじめられている絵よりも美人がいじめられている絵の方がより心を動かされてしまう。彼らの「無邪気な動物が虐げられている」発想ってそうしたものと根っこは同じところにあるんじゃないかなぁと。


その意味で、このバカみたいな事を言っている人びとは、目に映るものしか・美しいものしか救おうとしない私たちへの、実は遠まわしな風刺活動なのかもしれません。そうだとしたら何て体を張ったパフォーマンスなんでしょうね。動物愛護すごい。喜劇とは、やはり実は真の悲劇でもあるのでした。


オッカムの剃刀 - Wikipedia
うん、なさそう。