「みんな」と「世間」と「ひと」と「一般化された他者」と

少し前に、某「太宰メソッド」について知った時に考えたことと、その先のお話。

自らの個人的な好悪の感情などを「世間」や「みんな」といった大きな主語に託すことで、自分の責任は回避しつつ、発言に権威や説得力をもたせようとする手法。 

太宰メソッドとは - はてなキーワード

その意味するところは、彼でも彼女でも貴方でもそして私でもないし、誰のことでもない。そんな人間存在の全体の持つ一般性であり、「大きな主語」という意図的に曖昧にされた一般性。まぁよく言われる話ではありますよね。みんなって誰だよと。だからこそこうした言葉が生まれるわけだし。
私たちがよく使うところで言えば「みんな」であるし、太宰さん的には「世間」だけれども、それってハイデガーさんやミードさんも同じようなこと言ってますよね。
それはマルティン・ハイデッガー*1の言う所の「ひと」であり、あるいはジョージ・ハーバート・ミード*2の言う所の「一般化された他者」であると。こんなに居るんだから同じ事を考えた人はもっと居るかもしれません。浅学な僕にはさっぱりですが。


さて置き、こうした事について考えた時に、面白いのは上記3人の方って皆同じ時代に生きてた人なんですよね。1900年前後。近代まっさかり。だからといって、まぁその時これに対しては、それ以上特に何も言えることがなかったのでこの日記で触れることもなくスルーしてたんです。

近代の人たち頭おかしい(誉め言葉)

で、そんな話も忘れかけていた先日、巡回先でもある誰が得するんだよこの書評さんの所で面白い事言っていたので、揮発しそうだったメモリが復活しました。

フロムは「自己」の有限性への絶望と、世界の無限性・全体性へ回帰したいという渇望を近代人に特有のものだとしている。*2  だとすれば、中世の人間は「自己」への視線を持っていなかったのだろう。その視線の対象にあるのは「ムラ」とか「コミュニティ」とかいうものであり、矮小な「自己」でなかったということなのかもしれない。また現代のコミュニケーションが生身の「自己」を通してではなく、「キャラ」を通して行われるのも、矮小な「自己」を直視したくないことの現れなのかもしれない。

自由からの逃走 / エーリッヒ・フロム - 誰が得するんだよこの書評

そうかー、それって近代の人特有のモノだったのかと目からウロコ。フロムさん良いこと言ってる。そのうち僕もこの本読もう。


引用先でも少し触れられていますけど、それは例えば、「人間はみんな死ぬ」という「みんな」によって私たちはそうした自らの避けられない死の恐怖を緩和している、そんな私たちの持つ自己防衛のシステムだったりすると。「みんな死ぬ」とは、ここでみんなと自分以外の誰でもない誰かを仮定することで私たちは恐怖を覆い隠している。あるいはそれは「太宰メソッド」などがまさに示しているように、社会学や心理学などでいうところの、認知論的な内心における弁明や救済をも提示もしてくれると。
近代の人たちがそんな風に(ハイデガーさん風に言えば)「個人が本来的に存在する」自己の個体性に気付いてしまった絶望故に、そんな自らを慰める為の曖昧な全体性に逃げ込むと。それが「みんな」であり「世間」であり「ひと」であり「一般化された他者」であると。


やっぱり近代の人たちは頭おかしいなぁ(誉め言葉)