祈りの意味

聖ベアトリスを信じるのだ。



「祈り」は信心深い人とそうでない人とで異なる影響を与えるという研究結果 - GIGAZINE
面白いお話。神の支配について、許しか罰か、というとまぁベタな議論にはなってしまいますけども。

調査を主導したアローニャ氏は、PsyPostに対して「もちろんより多くの条件による研究を続ける必要がありますが、我々の研究結果は、神に祈りをささげることは信心深い人とそうでない人の間では道徳的な行動に対して異なる意味を持つものである可能性を示唆しています」と語り、信心深い人とそうでない人の間でみられた「祈りの模写」の効果の違いを強調しています。違いが生まれた理由についてアローニャ氏は、「これは信心深い人とそうでない人では、神の支配に対する概念的な違いが存在するからかもしれない」と説明しています。

「祈り」は信心深い人とそうでない人とで異なる影響を与えるという研究結果 - GIGAZINE]

素人考えながら、このお話を説明しようとするならば二点かなあ。行動経済学風説明か、あるいは宗教現象学などでよくある目的論的な印象。


行動経済学では、善行と悪行とが計量的にトレード・バーターされると(俺ルールな内心で)思う人がいる、というのはしばしば指摘されるお話ではありますよね。政府が悪いことをしているので、自分が脱法・グレーな行いをすることは正当化されるのだ。目的が手段を正当化するというと日常にもありふれた地獄感でもありますけど。
国連本部のあるニューヨークでは、駐在アメリカの外交官ナンバーによる路上駐車な交通違反がそれはもうひどいという研究において、反米感情の強い国ほどそうした駐車違反をすることが多いというのもあったりするそうで。巨悪であるアメリカ相手だから、その悪魔にダメージを与えられるから駐車違反はセーフ。
自らに正義・正統性があればあるほど(こちらも自らの主観による「多少の」という範囲で)自らの悪い行いが許されると考える人たち。
――「祈った」のだからカンニングも許されるようになる、かもしれない。


もう一方の宗教現象学なネタである、「これは信心深い人とそうでない人では、神の支配に対する概念的な違いが存在するからかもしれない」というのでちょっと思い出すのは、少し前に出た『キリスト教と近代の迷宮』で語られていた宗教が持つ神の支配という(そして近代科学が持つ「反」)目的論的概念なのかなあと。
――「祈る」ことで神の目的を思い出す人たち。



「祈る」ことで道徳性を取りもどす人たち。
あるいはむしろ敢えて「祈り」を経ることで、神などいないと人が真に自由であることを思い出すのか。


祈りの意味について。
みなさんはいかがお考えでしょうか?