彼らはクジラの為に怒っているのではない

皆大好き捕鯨シーシェパードな人たちのお話。


「過酷な仕事」覚悟でシー・シェパードに参加する人たち 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
これまでも何度か書いてきたしいい加減言及する事も無くなってきたので、スルーしようかと思ったんですけど面白い部分があったので少しだけ。

「調査船が水平線の遠くに見えていて、とても奇妙な瞬間だった」とディックスさんは振り返る。「辺り一帯にあの美しい動物たちがいるのを見て、あの調査船の人びとのクジラに対する考え方と、わたしたちのクジラに対する考えが、まるで異なっていることに気づいて……突然、啓示を受けた瞬間だったわ」

「過酷な仕事」覚悟でシー・シェパードに参加する人たち 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News

偶然なのか覚醒したのかは知りませんけど、これってかなり中立的で真っ当な見解だと思うんですよね。
私たち捕鯨容認派と原理的な捕鯨反対派の間にあるのは「考え方の違い」でしかないと。確かに、今更そこかよ、な感はありますけど、でも彼らの口からその言葉が出るとなんだか感動してしまいます。ヤンキーが子犬に餌あげてる理論に近い。


つまるところ、彼らの怒りは「クジラの為」へ向かっているのではない。彼らの怒りのその本質的な所にあるのは、結局、「何故自分たちの(素晴らしき)価値観を認めないのか」と怒っている。彼らが最終的に求めているのは彼ら自身の価値観の受け入れでしかない。そして自らの価値観というのは、しばしば、自分自身の価値やアイデンティティそのものを投影することになるので、それが認められないことに対する怒りは(強く確信していればいるほど)より激しくなる。
これって構図的には人種差別などに対する怒りと同じ構造なんですよね。
現代に生きる私たちが普通なぜ人種差別に怒りを覚えるのかといえば、それは差別の犠牲者たちが普遍的な人間として与えられるべき価値を付与されていないと感じているから。私たちはその差別の犠牲者への価値や敬意が認められていないことに対して怒る。まぁそれを確かに一般に、人種差別による犠牲者の為に怒っているとも言えるんだけど、より踏み込んで言えば、それは私たちの持つ「人類はみな普遍的な権利を持つ」という価値観が蔑ろにされているから怒っているんです。


上記人間の権利のようなほぼ合意のできている事についてそう思うのは別に何の問題もないんです。彼らの正義感と私たちの正義感が合致しているのなら。しかし捕鯨に関しては悲しいことにそうではない。それでも尚、彼らは暴力や不法行為に訴えるだけの正当性があると自らの正義を信じている。
彼らはそれだけクジラを大事に思っているのではなくて、それだけ自らの価値観に確信を抱いているから。
だから実はそこで科学的な証拠を幾ら述べた所で何の意味もないんですよね。その証拠を信じるとか信じない以前に、彼らはクジラが傷つくことではなくて、自分の価値観が認められないのが嫌なだけだから。


さて置き、よく教訓として語られるように「人間は誰しも特に自分自身に対しての厳格な客観性は期待できない」わけであります。だから私たちは彼らを見て単に馬鹿だなぁと言うよりも、むしろ反面教師として自らの価値観の正当性について少しでも客観的に考える習慣をつけるようにすれば、彼らのような地平に至る事を避ける事ができるんじゃないかと思います。