だれもがライオンを愛してる。

ライオンかっこいいもんね。がおー。故に、そうさ彼は100%犠牲者なのだ。




「ジンバブエで最も有名なライオン」を射殺、頭を切り落とす ハンターに非難殺到 | ハフポスト
ここ数日何でかニュース観測範囲に「ライオン 歯科医」なんてのが流れてくるなぁと思ったらこんなことあったんですねぇ。

7月に「ジンバブエでもっとも有名なライオン」として親しまれていたライオンの「セシル」が射殺され頭を切り落とされた状態で見つかった事件で、地元当局はアメリカ人の歯科医師が事件に関与していたとの声明を発表した。

ウォルター・パルマー氏はミネソタ州のブルーミントンの歯科医師で、13歳のライオン「セシル」を狩猟するのに約680万円を支払っていた。テレグラフが報じた。「セシル」は、狩猟が禁止されているワンゲ国立公園から、近隣の狩猟区域に肉を使って誘い出され、矢を撃たれて弱らされたとみられる。その後、ライオンは40時間にわたって追跡され、最後はライフルで射殺された。

「ジンバブエで最も有名なライオン」を射殺、頭を切り落とす ハンターに非難殺到 | ハフポスト

マジひどい。おわり。
でもそれだけじゃ寂しいので、少し前に私たちが恣意的に選択する『悲劇』ネタを書こうとしてたことを思い出したので、それに絡めて以下適当なお話。




人間愛護より動物愛護 - maukitiの日記
この辺の基本ポジションについてのお話は以前日記でも書いたお話ではあります。私たちにとって何が『悲劇』かを決めるのは、別にその犠牲の大きさじゃないんですよね。むしろより重要なのは、その悲劇とするニュースの「加害者と犠牲者の解りやすさ」であることがほとんでもある。

だからこそ、動物愛護はその善意の感情がほとばしるままに突っ走ることができるのです。身も蓋もなく言えば、相手の事情など慮る必要なしに、ただただ自分たちがやりたいように手を差し伸べることができる。無条件で前提なき無垢な弱者。その意味では保護対象としての価値は人間よりも動物の方がずっと「扱いやすい」のです。その価値の高低はともかくとして、しかし都合のよさ=広告価値としては、ある意味で人間を愛護するよりもずっと上位にあるのです。

人間愛護より動物愛護 - maukitiの日記

つまり、私たちが何で普段毎日のように数十数百人単位で死んでいるシリア内戦の惨状を半ば黙認しておきながら、今回のような動物ニュースに「殊更に」心を打たれてしまうかって、そりゃ今回のセシルさんが解りやすく100%犠牲者だからですよね。
だからこそそうしたニュースは多くの人の心を打つ。汚濁にまみれた人間社会ではもうあまり見られなくなりつつある憐憫を誘うニュースに必要な、無垢な犠牲者のとしての価値を持つようになる。
セシルという名を持つライオンは、罪のない犠牲者として象徴となったのだ。


ちなみに数年前に映画にもなった、あの実話を元にした『だれもがクジラを愛してる。』という物語で愉快なのは、単純に打算でクジラを救う人たちを皮肉ったタイトルだけじゃないんですよ。
まさに当時の二大超大国である米ソ首脳が手を取り合っての北極海の氷に閉じ込められたクジラの救出活動をする一方で同じ頃には、イラクフセインクルド人化学兵器をぶっぱなして虐殺するのを黙殺していたし、南スーダンでは内戦で数万人が飢餓で死んでいくのを当時の人びとが半ば無視していた*1。しかし、彼らが無視せず打算で救うのは人間たちではなくクジラだっていうね。
打算ですら、救われることのない人びと。
すばらしき「世紀のクジラ救出劇」の裏側。

パルマー氏が働く歯科病院の電話は、彼の名が公にされてから不通状態が続いている。また、アメリカのレビューサイト「Yelp」上の彼の歯科病院のページには、批判のコメントが殺到している。

パルマー氏のスポークスマンはガーディアン紙に対して「(パルマー氏は)一連の出来事に困惑している」と述べた。

「ジンバブエで最も有名なライオン」を射殺、頭を切り落とす ハンターに非難殺到 | ハフポスト

もちろんスポーツハンティングは批判されるべき点が多いのも事実でしょう。故に件の歯科医へ殺到する怒りのコメント等は当然でもある。かといって、同じような気軽さで、例えばアサドやボコハラムや『イスラム国』に対しても同じようなことをできるかというと、まぁそんなことありませんよね。
罪のないライオンの命を弄んだ歯科医をネットで殴ることはできても、しかし現実に人間の命をその数万倍のオーダーで弄ぶ人たちのことは多くの私たちは同じようなレベルで殴ることができない。
でも仕方ないよね、だってまさに本邦でも散々言われているように「それで○○過激派の怒りを買ったらどうするのだ!?」なのだから。正義を実現するのも楽じゃないぜ。



人間の犠牲者を直視するよりも、動物の犠牲者を直視する方がずっと気楽だから。まるで前者のバーター取引でもするかのように、そうしておけば少なくとも自らが正義を忘れていないことを再確認できるから。
あの頃から現在に至るまで、まぁ私たちは何も変わっていませんよね。おそらく今後もずっと変わらないでしょう。
別の国で現在進行形で進む悲劇を、ほんとうに知らないならまだしも、知っていて、黙殺する。
――かくして私たちは今日も動物虐待に怒りを燃やす。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:ちなみにじゃあ当時の日本はというと、昭和天皇重篤のタイミングで、別の意味でそれどころじゃなかったりする。