「なぜパクリはいけないのか?」の疑問の先にあるもの

なぜホンモノや正規品でなければいけないの?


「パクりはなぜいけないの?」 有名ブロガーの問いに人気ライターが応戦 WEDGE Infinity(ウェッジ)
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コンテンツを「パクる」のは、なぜいけないの?教えておじいさん!(随時アップデート中) : まだ東京で消耗してるの?
えーと、まぁ見事な釣り針だなぁ感。

さて、コンテンツのパクリって、何でいけないんですか?これ、真面目に答えられる人、どのくらいいるんでしょう?「盗むのはいけないことだからいけない」「法律違反だからいけない」みたいな幼稚な意見はダメですよ。

コンテンツを「パクる」のは、なぜいけないの?教えておじいさん!(随時アップデート中) : まだ東京で消耗してるの?

でもまぁそれなりに日記のネタにはなるお話ではあるかもしれませんね。このお話の要点としては次の二点だと思います。「メタ規範」と「オリジナル保護の哲学的意味」。
ということで、以下その辺に関する適当なお話。

メタ規範について

(他人事なのに)不正義に怒る人たち、というのはまぁ社会学辺りでしばしばあるネタではありますよね。現代でもPC辺りの議論とも無関係ではない。うちの日記でも以前に何度か書いていて、
正義にかわっておしおきよ! - maukitiの日記
社会秩序を維持する『神の見えざる手』 - maukitiの日記
この辺は政治学から『メタ規範』という言葉でアクセルロッド先生や、ロバート・トリヴァース先生が生物学の視点からとても分かりやすく説明しているので、その辺の本を読めばいいと思います。端的に言ってしまえば、人間は「役に立つ」「善い」社会規範だから守ろうとするのではなく、多くの場合で私たちは「守ることそのもの」に価値と喜びを見出すようになる。ザ・同調圧力。だから自分がそれを破るとなんとなく罪悪感を覚える(内心では正当化を図ろうとする)し、同じく他人がそうしないと怒りを覚える。人間がまさに社会的動物であるからこそ避けられない感情である。
社会を本能的に維持しようとする故の、規範を守らせようとする規範=メタ規範、として。



知的財産保護の哲学的意味

さておき本題。知的財産擁護の二つの論理について。経済的理由と哲学的理由、この二つをきちんと分けて考えないと、一方の議論にもう一方を持ち出したりして議論がぐだぐだになってしまうので避けるべきではないかと思います。その辺の後者についての適当なお話。


そもそも知的財産という概念は、別に人類全体にとって普遍的な価値観なんかではなく、他の多くと同様にかつてヨーロッパにあったそれが世界の支配的なスタンダードとして広まっていったわけです。
――では何故彼らはそうした知的財産を保護するシステムを発達させたのか?
というと理由の半分かそれ以上はもちろん経済的要請からの利益保護の為であったわけですけども、それと同じくらい哲学的な理由がありました。つまり「オリジナルはすばらしいのだ」という価値観が。彼らは単純に今ある作品そのものを愛するのではなく、製作者や時代性などその作品背景にある来歴などの伝統や哲学も同時に愛している。故にその作品が創造されるまでの過程と哲学が織り込まれた『本物』には価値があるのだ、と。
http://kousyou.cc/archives/8496
最近のKousyoublogさんちでも少し記事にされていたような欧州各国王室の「血統重視」というのもその価値観の一種であるのでしょう。現在にまで連なる歴史と伝統が確約されている故に正統性が自ずと担保されるからこそ「血」が貴い。これも一種のブランド信仰ですよね。
これはヨーロッパなどに限った話ではなく多かれ少なかれ日本でも同様で、例えば中国なんかでもこうした価値観の発展はあったはずです。有名なお話では三国志で初期の劉備さんなんかが「劉」姓を名乗るように。ところがご存知のように現代中国では、そのような価値観はさっぱり衰退してしまった。
その理由として中国とヨーロッパ地域との歴史比較がよく言われるのです。同規模の強力なライバルが歴史を通じてほとんど存在しなかった中国では、強い権力者が「歴史」を一度書き換えれば、まさに中華帝国ではその変化は不可逆となるから権力者が変わる度に歴史は都合よく書き直されてきた。一方で諸勢力が乱立するヨーロッパではこうはなりませんよね。仮にある国家がそうした歴史を書き換えようとしても、それは必ずそれ以外の別の国では温存される。
だからこそ共通言語としての『来歴=オリジナル』の確かさが重視されるようになっていったのが多様性を持つヨーロッパであり、逆に単一性から歴史なんて権力者が一晩で書き換えてしまうものだからそんなモノに大きな意味はないと、模造品にまったく抵抗のない中国的価値観が生まれるのでした。


かくしてそんなハイクラスたちの哲学的価値観(オリジナルは素晴らしい故にその証明と保護が必要である)と、商業上の利益があわさって『知的財産』という概念は発達し、世界を征服しようとしたヨーロッパ的価値観=グローバルスタンダード=特許や商標の複雑なシステムとして世界に広がるのです。
模造品にはないオリジナルが持つオーラこそ重要だ。そんなオリジナルへのリスペクト――と書くと途端に安っぽくなってしまいますけど――の有無こそが知的財産という概念が生まれる(少なくとも半分の)基礎にあった。日本でも流行的なブランド信仰は根強いわけですけども、本場の、というか本来のブランド信仰というのはこうした価値観でもあるわけです。形而下にある作品そのものだけでなく、作品の持つ形而上の意味を支持するからこそ。解る人には解るが、解ろうとしない人には一生解らない「本物」として存在意義。
オリジナルはオリジナルである故に貴い。その為にオリジナルがオリジナルであることの存在証明と、それが毀損されない為に保護が必要である。
ただ、もちろんこれは万人に理解されるような哲学ではありませんよね。ぶっちゃけそんなの金持ちの道楽と言っても過言ではない。個人的にも「そんな歴史だの哲学だのどうでもいいからとにかく機能すればいいよ」という方にはそれなりに頷く所ではあります。別にホンモノじゃなくてもニセモノでも大して変わらんじゃないか、というのは大量生産に生きる現代社会においては概ね正しい。
このパクリ問題とその議論というのは単純に商業的利益云々というだけでなく、もう一つ別の軸としてこのオリジナル信仰という価値観にどこまでコミットするか、というお話なのだと僕は理解しています。だから実の所それは、是非と言うよりは、個々人にある『価値観』『正義』『美徳』の違いでもある。


「なぜパクリはいけないのか?」という疑問は、ほとんどそのまんま「なぜホンモノでなければいけないのか?」という疑問と同一なのです。

  • 表面上の機能さえ同じであれば、現実の中身さえ一緒であれば、模造品だろうがパクりだろうが一緒なのだろうか?
  • 作品とは(ただの模造品やパクりにはない)過程にある製作意図や時代性や歴史背景をも射程に含めた『創造物』として愛すべき価値がある故に、オリジナルは保護しなければならないだろうか?

やっぱりこれは是非の問題ではないよなぁと。


みなさんはいかがお考えでしょうか?