情強たちの宴

あるいは自戒の言葉として。


http://www.afpbb.com/article/economy/2799816/7207509
ということで色々ありましたが止まっちゃいました。まぁこうして振り返ってみると、なんというかあまり日本では見られない光景ではありましたよね。それが現実に正しいのかどうかはともかくとして、ともあれ「政治主導」というのを初めて見た気がします。その末路がこうした事態に行き着くことを解っていて彼らは「政治主導」を謳っていたのだろうか? と考えるとまぁ微妙な所ではありますけど。


さて置き、今回の一連の騒動で改めて浮き彫りになったのは、人目を引くあまりにも重要すぎる社会問題であればあるほど、まともな手法で解決することが不可能である、ということなんですよね。それは勿論、問題が複雑すぎて体系的な分析が不可能であるということでもあるし、そしてよりぶっちゃけてしまえば、自称『情強』の方が多すぎて意見などまとまるはずがなかった、ということでもあります。
それが重要すぎる故に、私たちの誰もが大した意見でなくても『一言居士』でありたいと望み、そして実際にそう振る舞う。
専門的に従事している人でさえ、あるいはだからこそ、確定的なリスク予測を避けているのに。しかしだからこそ、素人である私たちが口を出せてしまう余地が生まれることになる。それがあまりにも重要過ぎ、同時に複雑すぎるが故に。なんというか皮肉なお話ですよね。
こうして誰もがそれぞれの意見を同時に述べ、誰が何を述べているのか、更にはどんな意味で述べているのか、誰にも収拾がつかなくなる。またお互いに反対派の潜在的なデメリットを並び立てることによって、結果として、誰も動けなくなってしまう。
「民主的」な社会に生きる私たちだからこそ、結局の所、誰も最終的な発言権など持っていないことにこうして気付くわけです。


よく「重要な社会問題なのに解決しないのはおかしい」的なお話をする人がいらっしゃいますけど、逆なんですよね。それが重要過ぎる問題であるからこそ、解決が難しくなっている。誰もがそこに口を出さずにはいられないから。
重要な問題に対して「議論を尽くそう」と民主主義的手法に誠実であればあるほど、しかし解決は遠くなる。


いやぁ民主主義ってほんとうにめんどくさいですよね。