結局の所、生暖かい目で見守る事しか出来ない

懲りずに昨日の日記に近いお話。


http://hamusoku.com/archives/4721328.html
なんというか、すっごいですよね。こういうものがあるとは聞いてはいましたけどまさかこんな斜め上の方へ突っ走っているなんて。まぁ構造的には「中心点←それを見て笑う人←それらを見て笑う人」というよくある「2chはてな」とか「2chtwitter」的な終わりなきメタ視点連環構造というすごい普通なお話でありますけど。どうでもいいんですけど今「連環」とか書くと某マミさんしか思い浮かばない。円環の理に取り込まれている私たち。


とりあえず前提なお話から。「一体彼らをどう見ればいいのだろうか?」というお話について。
こうした事例について『自己顕示欲』なお話がよく語られる訳ですけども、確かにそれは間違ってはいないんですけども、しかし微妙に違うとも思うんですよね。結果としては大して違いは無いとも言えるんだけど、より能動的な「顕示」というよりは、それはやっぱり受動的な「認知されたい」という欲望に近いんじゃないかと。
こうした他者からの「認知」を求める欲望って、それこそ昨日の正義感のお話と同じ位私たち人間に普遍的にある感情であります。
政治哲学ではそれこそプラトン大先生の頃からずっと議論されてきたお話ではあるし、そして経済学においてもアダムスミスの頃から「富が満足させるものは、消費欲ではなく地位への欲求である*1」なんて言われてきたわけで。政治的にも経済的にも、そうした認知を求める欲望こそが、人類の進歩を促してきた。
だから殊更に彼らの『自己顕示欲』そのものを批判するのはあまり美しくないとも思うわけで。そんなもの誰にだってあるんだから。


とするとやっぱり重要なのはその「手法」という所に帰結する。
(そんなニコ生なんていう方法で馬鹿みたいな満足させるから)故に彼らは批判されるのだ、と。
その意味で「ニコ生ってこんな面白い事になってんのかwwww」と『w』を連打して嘲笑やからかいのポジションを表明するのは、社会的な攻撃手法としてはかなり効果の高い方法なんですよね。子供のイジメにおいてそうした「馬鹿にして笑う」という手法が、それこそ絶対的な効果を挙げるように*2。それは決して相対的で第三者的なポジションではなく、嘲笑とはつまり、相手のやり方を批判し統制しようとする行為の表れでもあるから。


さて置き、ここまできてようやく「では何故彼らはそんな手法に至ったのか?」と本題に至る。
しかしまぁそんなことを考えるのは、ぶっちゃけあまり意味のないお話にしかならないと思うんです。それは「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるからだ」的な身も蓋もないお話に近い。なぜ「そんな(馬鹿な)手法に至ったのか?」と聞かれれば彼らは「それが今ここにあったからだ」と答えるんじゃないのかと。その裏に彼ら固有の愚かさや時代性を見出そうとしても、実の所そんなもの初めからないんじゃないのかと。
その意味で、馬鹿で間抜けだった自分の若い時代にはそうしたモノが無くて良かった(もしかしたら自分も馬鹿なことをやっていたかもしれない)という、よくある感想に落ち着くしかない。


ダラダラ書いたけどオチが無かったというオチ。

*1:この議論において有名なのはロバート・フランクさんであります。「経済的な動機とされているものの多くは、実は『地位をあらわす商品への欲求』である」と。Robert H. Frank - Wikipedia

*2:あるいは、子供のしつけで「そんな事をするとみんなに笑われるよ?」と叱る親のように。