なぜドイツは途方もない賭けに打って出たのか?

「ドイツの『脱原発』という賭け」な一昨日の日記を書いてて考えたお話。恒久平和とか核なき世界でも可。


件のドイツだけでなく、私たち日本でも根強い支持のある「原発なんてキケンな代物は全て無くしてやるぜ!」的な発想は、まぁ確かに魅力のある提案ではあります。実際に実現できたらとても素晴らしいことなんでしょう多分。その「達成までに支払う対価」とその「成功率」さえ考えなければ。更に付け加えると、そもそもそんな『脱原発』の社会が今よりも本当に素晴らしいかどうかなんて、誰にも断言できないわけですけど。
なので、一般に国際社会の人々からは良くて冷笑的な「まぁ、がんばってみれば?」的な反応であり*1、悪いと「(どうせ失敗するんだから)余計なことするんじゃねぇ」的な反応だったりするわけです*2


勝利した時の報酬は確かに果てしなく大きいけれども、しかしそれまでに失うものを考えればすごい分が悪いように見える。
なのに一体何故彼らはそんな『賭け』に熱狂し挑戦しようとするのだろうか?


それに対して彼らがバカだからとか、現実が見えていないからだとか、お花畑だからだとか、そんな身も蓋もないことを言ってしまってのはつまらないので、この話を見てなんとなく思い出した有名なパスカルさんの『パスカルの賭け』*3で語られてたお話について適当に書きます。
パスカルさんは熱狂するギャンブラーに例えて、「無限の価値を持つ景品」について以下のように述べていたんです。

「ギャンブラーが賭け事をするときに感じる興奮の大きさは、勝ったときの景品に、勝つ確率を掛けたものに等しい」

そして彼はこう続けた。「永遠の幸福という景品は無限大の価値をもつ。また、高潔な人生を送ることによって天の国に入れる確率は、たとえどれほど小さいとしても有限の値をもつ」したがって、無限大の景品に有限の確率を掛けたものはやはり無限大だから、信仰は――パスカルの定義にしたがえば――無限大の興奮を得られるゲームだというのである。*4

本来ならば例え勝った時に得られる景品が幾ら大きかったとしても、その勝利の確率が極小であるならば、私たちは普通そこまで大きな期待も興奮も得ることができないんです。当たり前の話ではありますよね。
しかし、もし仮にその景品の価値が無限大に大きい(と信じている)ならば、その成功率が幾ら低かろうと、あるいはその為の犠牲が幾ら大きかろうと、その『賭け』に挑むことは正当化されうるんです。それは宗教の信仰が正当化されるのと同じ理由で、やはり彼らの挑戦はその意味で合理的とさえ言える。だってそれをするほどの価値がその賭けにはあるのだから。可能性がどんなに低くても、そして何を犠牲にしたとしてもやる価値があるのだと。


つまるところ、『脱原発』という途方もない実験・賭けに出たドイツと、それを生暖かく見守るそれ以外の人びととで、何が違うのかってそういうことなんですよね。別に想定している成功率や、失うものの大きさで両者が隔てられているいるわけではない。
真に両者の差となっているのは、その得られる結果への期待値であり、価値の付与であると。
彼らは私たちとは違ってそこには無限大の価値があると信じている。故に彼らは熱狂する。
私たちだって「それなり」には価値があると思っているけれども、しかし彼らにとってはそれどころではない。彼らは勝利に至る為にはすごい大変だということを解っていながらも、しかしリスクとリターンを合理的に考えた上で選択している。それは私たちがリスクとリターンを合理的に考えた上で選択しているのと、どちらも全く違いはない。違うのは両者の結果への期待値でしかないのだから。


こうして、原発問題だけでなくその他様々な政治問題等においてもしばしば見られる構図が完成する。そこでは賛成派と反対派とがどちらもまったく同じことを口走る事になる。
「合理的に考えれば当然の選択だ」と。