核廃棄物最終処分場を受け入れるにはおいくら万円?

よし、脱原発の為に札束でそいつらを殴り行こう(提案)


【最終処分場が先か】 廃炉の即時実現と核廃棄物処理は不可分です 【犯人捜しが先か】 - Togetter
えーと、なんというかtwitterの議論部分に関してはおつかれさまですとしか言えない気持ちになってしまいますので、まとめだけ見ればよろしいのではないでしょうか。

まとめ

「核廃棄物最終処分場を何処に作るか?」
この問題は最終的にはここに帰結し、これに答が出せないが故に、最終処分場がなければできない全てのことが滞ります。

推進派は最終処分場行きを免れるわけではないが、再処理することで少しでも先送りにし、時間を稼ぐことができます。

漸減脱原発派も同様。そして少なくとも現時点で炉内にある核燃料は、使っても使わなくても核ゴミになるのだから、使い切ってからでいいじゃないか、という考え。これも若干ではありますが時間稼ぎの猶予はあります。

即時反原発派は、そうした猶予なしに「今すぐ!」を訴えているわけですから、その目標を実現しようと思ったら、最優先でこの先送りされてきた問題に答を用意しなければならないのは即時反原発派です。

【最終処分場が先か】 廃炉の即時実現と核廃棄物処理は不可分です 【犯人捜しが先か】 - Togetter]

実際その通りなのでしょうね。脱原発という止めた『後』の管理について。結局止めようが続けようが、どちらにしても残ったそれは管理しなくてはいけないわけで。じゃあそれは一体どうやって? 一体何処で? 
まぁこのお話で面白いのは、最終処分場の処遇さえ決めてしまえば一部の方々が夢見る短期における『脱原発』も現実的な選択肢ともなるのだろうけど、しかし逆説的にそれがされてしまうと『即時』脱原発の必要性もまた崩れてしまう点にあるのですよね。だって少なくとも人の一生という単位で見た場合には、ぶっちゃけ数年止めようが動かしていようが長期的に見れば何も大して差はないんだから。


さて置き、以前も少し書いた気がしますけどこのような所謂「NIMBY(うちの裏庭でやるのは勘弁してくれ)」な問題を解決するのに必要なのは、その正しい『価値化』という点にあるわけです。それにはどれだけの価値があるのか?
つまり、今回迷惑施設の例でいくと「それにはどれだけの負の価値があるのか?」ということであります。そこを明確にしてこそ、ならばどれだけの代償を払えば合意に持ち込めるだろうか、という議論にまで踏み込めるのです。
だから「生命に関わることは無限大の価値を持つ!」なんて風に言われると、それはもう議論は一歩も進まなくなってしまうんですよね。まぁ確かにそれはスローガンとして、あるいは大義名分や金科玉条として使うのはまぁ理解できなくはありませんけども。しかし実際にそれを現実政治に持ち込まれるとまぁ困ってしまうわけで。「核廃棄物で被る不利益は無限大だ!」なんて言ってしまったらもう誰にも手は挙げられなくなってしまうんですよ。


だからこそ――軍事基地や原発の是非を巡る議論において――原理的な反対派の彼らは戦術の一つとして意図的にそうした言説を用いるのです。その不利益は無限大である故に、何を以ってしても引き換えなどにはできないからこそ、絶対に妥協することなどない、と。


まぁそれが無理なら強制執行や強制収用など、権力(パワー)を使うしかありませんよね。でもそれだと誰もが不幸になるしかない。
ただ、ここで気をつけておかなければいけないのは、一切の妥協を拒むような原理的な反対者たちにとっては、実はそっちの方がマシだったりする、という点であります。だってそうすれば彼らのその「不利益は無限大」というドグマを守ったままでいられるのですから。彼らは無垢なままでいられる。私たちは妥協したのではなく権力押しつぶされた被害者なのだ、と。
かくして現実的判断から妥協をした(しようとする)人たちまでも彼らは攻撃するに至ってしまうのです。結果的にその神聖な教義を汚してしまっているという点では実は敵よりも罪が重い。彼らを金で転んだ裏切り者なんて攻撃することに。まぁ今でも原発を受け入れた地域の人たちをそう批判する人が居たりしますよね。
そんな金に転んだ拝金者という批判も、逆に押し付けられた被害者たちという擁護も、結局どちらも間違っているんです。彼らは100%自業自得というわけでも、100%被害者でもないのです。ただ正しく現実政治として私たちの代わりに『妥協』を受け入れてくれた「感謝すべき人たち」でしかないのですから。


その未来の「感謝すべき人たち」に妥協をしてもらう為にもやっぱり『価値化』は避けて通れないのです。核廃棄物最終処分場を受け入れるにはおいくら万円?