『情けは人のためならず』を誤用する人たち

「情けは人のためならず」誤用の問題から見る*1、「農業トカマジムリダカラー!」なミャンマーさん一家をめぐるお話について。


「農業やりたくない」 就職拒否のミャンマー難民夫婦が会見 - MSN産経ニュース
ミャンマー難民:「事前説明と異なる長時間労働」改善訴え - 毎日jp(毎日新聞)
ということで盛り上がってたあのお話。もう既に色々各所で語られまくっているのでそちらを参考していただくとして、以下は適当なお話。


個人的には難民救済とかやりたくないならそれはそれで別にいいと思うんですよね。ていうか私たち日本って、これまでだってそうした(海外派兵を含めた)国際的な支援活動に対してあまりやる気なかったじゃないですか。金出せばいいだろ的な。「国際的に恥ずかしい」とかおっしゃる人も居ますけどそれを言ったら、これまでだってずっと恥ずかしい思いをしてきているのに何故今更、と不思議な気持ちには少しなります。
その意味において、今回のようなミャンマー人一家さんちへの適当過ぎる対応が特別にひどいのかというとそうでもありませんよね。ミャンマー人に特別冷たいわけではなくて、むしろ一貫して国外のことに関しては概ねどうでもいいと思っている。なのでその是非はともかくとして、今回の日本政府の対応は少なくともブレてないんじゃないかと。


さて置き、結局のところこうした政治難民を救うことは本質的に「彼らを救うためにやっている」わけじゃないんですよね。情けを掛けることはその人の為にならないとか、そういう誤用のお話ではないんです。
そこでは正しく本来の意味での『情けは人のためならず』な精神によって国際的な協調関係は維持されているわけです。無秩序な形で難民問題等が爆発してそれが周辺地域全体へと波及するような重大な問題となるよりは、「管理された形」でそれを受け入れる方がよっぽどマシであると。彼らを救うことはまわりまわって、結果的に自分自身を救うことになるのだと。
勿論そこには美しき『人権意識』な精神も当然含まれているんだけれども、しかしそれと同じくらい国際社会における不安定要因のリスク管理という合理的な計算も働いている。


ノブレス・オブリージュな話であるとか。かつてそうした問題を誰もが「見て見ぬフリ」をしてしまった故に世界大戦を招いてしまった反省とか。欧米の人びとにはそうした精神が根付いているわけです。対して「それが嫌ならミャンマー人は国に帰るべきだ」とか「国際的に恥ずかしい」とか言っている私たち。
こうした価値観の相違は別にそれが悪いとか良いとかそういうレベルの話でさえなくて、なんというか構図的には両者の『情けは人のためならず』の意味が決定的に異なっているように個人的には見えるんです。自分の為に情けを掛ける人びとと、他人の為に情けを掛ける人びと。こう書くとなんか後者の方が高潔なように見えますね。やったね!


みなさんはいかがお考えでしょうか?