きっと何者にもなれない子供たちに告げる

きらきらネームを手に入れるのだ!


きらきらネームは遠い将来が想像できないDQN親とハリウッドセレブの特権なのか? - ガジェット通信
ということで某「悪魔ちゃん」騒動以来色々と世間を騒がせているDQNネー、間違えました、きらきらネームについて。
といってもまぁ今更過ぎる話題なので、特別に面白いことを書ける気もしませんが、タイトルオチということで許してください。

だから、幼稚園児ならそんな名前もありかな、ぐらいの気持ちできらきらネームを付けるのではなかろうか?
母親が幼稚園のお迎えに行って、「変わった名前ね」と同じぐらいの歳のママ友や保育士さんに言われて、自分の思い入れを語りながら説明するぐらいなら想像できる。父親がバイト先で同僚に「オレ子どもが産まれたんだぜ」って言って、名前の由来を話すことぐらいなら想像できる。光宙(ぴかちゅう)くんとか、美妃(みっふぃー)ちゃんって、そういうことなんじゃないかな? 一寸先は闇、だからせめて今はきらきら。

でも、その子がこれから一生、大きくなって学校に行ってクラス替えの度に、そしてそれからずっと社会に出てからも、結婚相手を探すときも、自分で自己紹介をする度に、相手に「え? 読めない」「へぇ〜、変わってるね(プっ)」と言われながら説明しなければならないことまでは想像できないわけだ。

きらきらネームは遠い将来が想像できないDQN親とハリウッドセレブの特権なのか? - ガジェット通信

『きらきらネーム』に走る親たちは(子供たちがそれで苛められるかもしれないという)想像力が欠けている、というお話。まぁみなさん概ね同意できるのではないでしょうか。
実際のところもう少し公平に見てあげれば、傍から見て彼らには確かに『想像力が欠如している』と言うことはできるんでしょうけども、しかしむしろ、私たちが思うよりはまだ彼らには想像力があるからこそこうした行動に走ってしまうんじゃないかと思うんですよね。つまるところ、彼ら自身が考えているほど想像力はないんだろうけども、しかし私たちが思うほど何も考えていないわけではない。


さて置き、一般に私たちは他者との関係において、「自分が何者でないか」ということを見定めることによって「自分が何者か」ということを定義するわけです。故に私たちは多くの場合で持っているものではなく、持っていないもの、こそを数えてしまう。
彼ら『きらきらネーム』を与えようとする親たちは、私たちが想定するよりもずっとまともな配慮から、苦労するかもしれないと想像力を働かせた上でそれを与えようとしていると思うんですよね。彼らは「何者にもなれないかもしれない」という配慮から良かれと思って――心底その良心*1から――その行為に走っている。自分がしたような苦労は子供たちにはそんなさせたくないと。「何者にもなれない」なんて可哀想過ぎる、と。
その意味で、上記リンク先にあるように「彼らはその経済苦境が現実的手段として抜け出す手段を見出すことができないからこそ」というのは正しいのかなぁと。だから彼らはナンバーワンは無理でもせめてオンリーワンを実現しようと珍妙な名前を付けようとする。よく言われるように某「ナンバーワンよりオンリーワン」なんて歌が流行ったしまったせいで。


しかしそんな彼らが良かれと思ってやった行為は、まぁ皆さんが身も蓋もなく指摘するように、逆効果にしかならないわけです。ナンバーワンの代替としてのオンリーワンに無条件の幸福などありはしないのです。
この世界には、何者かになって悪目立ちしてしまうこともありうるのに。何か特別な長所によって目立ってしまうのはそれはある種の公平な取引ではあるのでしょう。しかしただ名前が変わっているだけ、というほとんど何の意味もない目立ち方をしてしまっているのは不幸以外の何者でもありませんよね。その両親たる親たちはおそらく自分のその逆説的な幸運に恵まれていたことを自覚できなかったのでしょう。何者にもなれなかった故の幸運を、不幸だと考えてしまう人たち。自分が何者にもなれなかったと感じているからこそ、子供にはそうあって欲しくないという親の愛情。自分が持っていないものを子供に託そうとする、押し付けがましくも、美しい愛情。
何者にもなれなかった人だからこそ子供に「何者かであって欲しい」と望み、逆に「何者かであった」故に子供にはそうあって欲しくないと望む人たち。


かくして「夜露死苦」な人たちはともかくとして、『普通』の人たちまでがきらきらネームに走ってしまう。まさに彼らは普通であるが故にその悲劇に気付かないままに。ナンバーワンは無理でもせめてオンリーワンであって欲しいと、心底良かれと思って。
いやぁ悲劇的なお話ですよね。