「車離れ=社会離れ」なアメリカ

実のところ、若者の○○離れ、というだけでは済まないお話なのかなぁと。


米国の若者、車離れ 「ネット普及で他人と会う機会減る」 - MSN産経ニュース
時事ドットコム:若者の車離れ、米でも=ネット普及背景に
日本でも結構言われるお話ではありますよね。車が売れない時代について。経済事情云々でばかり言及されているので少しだけ。

 【ニューヨーク時事】米国で10代後半の若者を中心に運転免許保有者が大きく落ち込んでいることが、米ミシガン大学交通研究所の調査で明らかになった。同研究所は、インターネットの普及により、友人らと直接会う必要性が薄れたためなどと分析した。米メディアが6日報じた。
 調査によると、米国で17歳の免許保有率は1983年に69%だったが、2008年には50%まで低下。20〜24歳でも、保有率は92%から82%に低下した。

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012040700098

このお話を見て思い出したのがロバート・パットナム先生の『孤独なボウリング』で語られているような「社会関係資本が低下するアメリカ」という構図で、長期的には今回のお話もそうした点が問題になったりするんじゃないかと思うんですよね。
つまりアメリカ社会における『車離れ』って日本のそれよりもずっと、アメリカという国家が個人主義化という社会分化への道を進んでいることの証左と見ることができるのではないでしょうか。


元々『国家』という共同体アイデンティティの一形態でもある近代ナショナリズムにしても、やっぱりそういう面から醸成されてきたわけで。アメリカのような人工国家ではそれが特に顕著であったわけです。アーネスト・ゲルナー先生が『民族とナショナリズム』の中で述べていた社会の「同質な酸素ボンベ」――大衆教育と産業化による人間の移動と混合――によって初めて彼らは移民たちをひとつに融合し、国家という枠組みにおける共通の一体感を形成することに成功したのでした。
少なくともその片方がなくなれば、彼らがますますより個人主義化していくのも必然の結果ではありますよね。特に先進国に住む私たちは最早、かつての産業社会にあったような労働形態から離脱しつつあるわけだし。車が無くても生きていけるのならば、確かに持つ必要はない。そして、孤独なボウリングをしているアメリカ人たち、なんて言われてしまうと。


勿論それは経済事情としての視点もあるんでしょうけど、しかしそれだけでないインターネットに代表されるような情報革命の帰結である個人主義的な社会へと至る過程としても、今回のアメリカの『車離れ』の調査を見るべきなのかなぁと。