私たちの愛した『労働教』

神は労働に宿る - maukitiの日記
ということで承前。

労働教原理主義派な人びと

その信仰心の多寡はともかくとしても、しかしこうした『労働教』の潜在的信者を含めれば世界全体で見てもそれはかなりの割合に及んでいたのではないかと思います。文字通り、「労働者」というカテゴリーの登場以来、それとほとんどセットで広まっていた「善く働くことは、つまり善く生きることだ」という『労働教』。
特にアメリカやドイツ、そして明治維新後の日本など、元々「勤労」という美徳と親和性の高かった社会では、すんなりと受け入れられることになる。
その美徳は善や正義となり、そして人生そのものへと。ロウドウは人生。
この視点からすると、世界でも有数の『労働教』に染まった――ぶっちゃけ「原理主義」と言っていいほどなのが、特に私たち日本であったのだろうと思います。ひたすら働くことを追求してきたお父さんたち。仕事中毒は誉め言葉ですらなく、常態に過ぎない。24時間働けますか?
働くことは人生そのものであり、それ以外の余暇などは、文字通り人生の余暇でしかない。
つまり労働とは神であり、いわゆるゴッドなのです。


神の存在に疑いの余地などないように、労働することに疑いの余地もない。


――だからこそ少なくない人たちは、生活保護のような存在を殊更に忌避するし、その唯一無二の「善き生き方」である労働に失敗した人は絶望から自殺にまで至ってしまうし、ブラック企業にありがちな「成り上がりカリスマ経営者」などの存在も黙認してしまう。だって労働とは絶対善なのだから。
本来であれば「善き労働」の為にも環境整備を進めることは矛盾しないはずが、しかしあまりにも原理主義教条主義な人たちにはそんな妥協さえも受け入れられない。解釈の余地さえそこにはない。
なので、そうした彼らが悪意を持って弱者を見下しているのかというと、それも微妙にズレていると思うんですよね。あるいは無関心だからというわけでもない。むしろ心底素朴に本来的な『善』と呼ばれる生き方に従っているだけなのです。
「何故あなたは労働という尊い生き方をしないのだ?」
「熱心に働けば働くほど善き人間になれるのだよ?」
「働かない奴は地獄に落ちてしまうのだよ?」
そこで発せられる彼らの冷酷な言葉は、しかしそれこそ熱心な既存宗教の信仰者たちが口にする「何故あなたは神を信じていないのか?」というレベルと同じ素朴さから発せられているのです。そこに疑問の余地があることすら想定されていない。



しかしまぁ前回にも書いたように、こうした信仰心はそれでも確かにメリットだってあったのです。後進国に過ぎなかった私たちは、正しくその努力によってこそ、世界の先頭にまで立つことができた。
特にパワーがなければ生き残れなかった弱肉強食の国際関係の時代において、結果としてその不断の努力こそが国家ひいては国民全体を押し上げたというのは間違っていないのでしょう。それこそ世界中から歴史的事実として「成功戦略」と讃えられた日本の『労働教』による成功神話。


『労働教』神話のおわりのはじまり

ところが私たち日本人が入信してから100年と少し、ついに根本的なことに気付きつつあるのです。宗教改革の時代の到来です。
「労働こそが人生の目的っておかしくないか?」
「そもそも労働だけやって本当に善い人生を送れるのか?」


日本が今になってこうした根本的な懐疑論に到達してしまった要因については、概ね二点あるんじゃないかと思います。
第一に、前述したポール・ケネディ先生流の国家興亡というセオリーが(完全にとは言わないものの)時代遅れになりつつあることと、そして「生まれながらにして」最低限満足のいく生活レベルが達成されたことで、『布教』することのインセンティブが失われつつある点。
そしておそらくより重大な第二の要因は、今更になってようやく「無我夢中で働いた後、人生に何も残っていなかった」という『労働教』の中心教義に対しての致命的な疑義が生まれるようになってしまった、という点。


まぁ考えてみれば当たり前のお話でもあって、ごくごく普通のお父さんたちにとって、それこそ生産年齢を過ぎ定年を迎えその余生に直面したとき「善く生きることとは善く働くことである」という『労働教』の中心教義はその後の人生を生きる上で何の助けにもならなかった。
かくしてその歳になって今更のモラトリアムに陥ってしまうのです。「働けなくなった後の、自分の人生とは一体なんなのだ?」なんて。そりゃ普通のお父さんたちは絶望するしかありませんよね。何か特殊なタレントを持つ「生涯現役」な人びとであれば問題は無かったんですよ。しかしそんなものやっぱり少数派でしかないわけで。
何で100年以上も経ってからこんな当たり前のことが日本で問題になったのかって、やっぱりその『労働教』信仰の高さもあったんでしょうけど、よりクリティカルな理由としてはあの「戦争」によって一度リセットされちゃったことが大きかったんじゃないかなぁと。本来であれば適当な所で一息ついて振り返る時間があったはずなのに。しかしその熱狂は止むことがないまま継続されてしまった。そして一気にゴールを迎え、一気に「目が覚めて」しまった。
本来の意味で宗教が提供してくれるはずの「いかに生きるのか」という問いに『労働教』は何も答えてくれなかったのだ、と。
そのショックの大きさは、元々別方向からの啓示として「労働『も』大事だよ」といった風に肯定してきた社会よりも、「労働『こそ』大事だよ」という風に肯定してきた社会の方がずっと大きいのでしょう。そして一斉に改宗した日本では後者の人がいっぱい居た。
そうして途方にくれる偉大なる先人たちと、一方で余生に人生の楽しみを上手く見出すことのできた偉大なる先人たち。そんな彼らの様子を見て、多くの若い世代は気付きつつあるのです。


……最早神は死んだのではないか?


かくして過渡期には避けられない摩擦の時代が幕を開けたのです。世はまさに大実存時代。保守派と革新派。
といってもそれは日本だけの現象ではなく、同じく続々とゴールに辿り着いた特に先進国を中心とした世界的なトレンドでもあります。『労働教』神話のおわりのはじまり。
ちなみに前回も書いたこのお話の元ネタであるローレンス・トーブ先生は、この変化を「労働者の時代」から「精神・宗教の時代」の移行であると仰っています。国際関係のルールの変化や、ロボットの発達等による労働環境の変化と合わさって伝統的な「労働は善」というような価値観は徐々に衰退していくだろう、と。



個人的に、社会保障セーフティネットをめぐって対立する日本や、政府機能をめぐって二分するアメリカ、そしてギリシャの扱いに苦しむドイツなんかも、この辺りは同じ『啓典の民』として似たようなジレンマを抱えていることが要因一つとしてあるのではないかなぁと。
労働に関するコペルニクス的転回の時代。一方で、伝統的な『労働教』信徒たる保守派の皆さんは、そこで必死に抵抗を続けてもいる。


個人的には、そうした労働教原理主義な人たちと、偶に話題になる「進化論を教科書からなくそうと頑張っている人たち」は悲しいほどに似ている気はしますけど。
みなさんはいかがお考えでしょうか?