美徳は知っているが俺らの態度が追いつかない

あるある過ぎて困っちゃうお話。


独ザクセン州で何が起きているか : ウィーン発 『コンフィデンシャル』
面白いお話。

 このコラムでも紹介済みだが、ドイツでは難民や難民収容所が襲撃されたり、放火されるという事件が多発している。最近では、ザクセン州のクラウスニッツ(Clausnitz)で18日夜、難民が乗ったバスが到着すると、100人余りの住民たちがバスを取り囲み、難民たちに向かって中傷、罵声を浴びせるという出来事があった。また、バウツェン(Bautzen)では20日夜、難民ハウス用の元ホテルが放火され、その消火作業を見物していた住民たちから笑い声や喝采が飛び出したというのだ。

 ザクセン州のスタニスラフ・ティリッヒ首相は、「ザクセンの名が汚されてしまった。それを取り戻すためには多くの時間と努力が必要となるだろう」と、一部の住民の蛮行を深刻に受け止めている。

 一方、ザクセン州カトリック神学者フランク・リヒター氏は、「わが州では相対的に同一民族の住民が住み、他の文化出身の外国人と共存した経験が乏しい。その上、社会は世俗化し、住民は宗教性に乏しい」(バチカン放送独語電子版25日)と指摘する。

独ザクセン州で何が起きているか : ウィーン発 『コンフィデンシャル』

キリスト教的価値観が強いから(イスラムな)難民を拒否するのではなく、むしろキリスト教のいう隣人を愛する美徳が足りないからこそこうなっているのだ、と。難民受け入れの苦闘に関して、しばしば「欧州のキリスト教社会と相容れない」ということが指摘される中にあって、こうした物言いは面白い指摘だと思います。


実際、宗教がある種の集団社会維持に役に立つ規範を生むことは昔から言われるお話でもあります。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中でウェーバー先生の指摘していた「労働美徳」とはまた別の論点として、プロテスタントの信者同士は一つのコミュニティで上手くまとまる能力が高い、と指摘しているわけで。


ただまぁ問題は「善き倫理」を知っていることと、それを実践できるかは同課はまた別の問題でもあるわけで。それこそ大多数の私たち自身が何が美徳であるか解っていながら、日々の生活で否応なく怠惰っぷりを晒すことで実感していますよね。
――贅肉になると解っていながら間食を辞められなかったり、もう一杯だけといいながら注ぎ足したり、明日やればいいやと洗い物をそのままにしたりする。
結局のところどれだけ美徳を頭で知っていても、それが実際の「習慣」となっていなければ意味はないんですよ。


その意味で、今回のありがたい神学者のお言葉から言えば問題なのは「信仰心」の薄さというよりは、「他文化との共存経験の乏しさ」こそが致命的なのかなぁと。彼らには、そもそも、多文化な社会を上手く維持運営していくだけの経験が足りない。
この辺は、オーストリアだけでなくヨーロッパ中を覆う難民騒動の根本的な問題だと個人的には思っています。特に東欧な彼らは何も美徳自体を知らない・足りていないのではなく、それを実践し経験を積むだけの機会がこれまでなかっただけ。
しかし、そんなをただ責めるのもフェアではないでしょう。出たとこ勝負で初めからやって上手くいくわけないよね。
アメリカやフランスなど、今でこそ比較的上手くやっている彼らですら、その途上には様々な悲劇がありその教訓を活かしてこそ現在があるのだし。


まぁ何もないだけならそれはそれで結構でもあるんですけどね。一方で、悲しいことに彼らには「教訓」として使える歴史もあったりする。昔懐かし伝統的価値観として尚も忘れられない「黄禍」として。そうした教訓を用いちゃっているのがペギーダな人たちだったりするのが悲劇であり(他人事としては)興味深いお話ではあります。


がんばれ人類。