右手に民主主義を、左手に資本主義を掲げて

公正さと効率化、その適切なバランスが見つからない私たち。


テクノロジーと失業問題:自由貿易は不幸をもたらす? : 地政学を英国で学んだ
ということで資本主義によって民主主義が弱められている、というお話。まぁ21世紀になってから、特に2008年の経済危機以来かなり一般にも浸透したお話ではありますよね。
フリードマン先生の有名なお言葉「資本主義は民主主義の必要条件である」というお言葉から隔世の感があります。民主主義の為に、中央権力からの独立するためのパワー=経済力をもたらしてくれるはずの資本主義が、いつしかそのパワーは強力になりすぎて民主主義そのものを阻害するという逆転現象。

●この二つのトレンドが突きつけている課題、そして中間層の仕事の喪失が政治的・経済的な問題となってくる理由は、あなたが会社の経営者からそれとも従業員かという立場の違いで、その問題への視点が大きく異なってくるという点だ。

●中間層の仕事を中国に輸出してしまうことや、仕事を機械に任せてしまうことは、頭のよい管理職や株主たちにとっては「利益」になる。これをわれわれは「生産力の向上」と呼ぶ。

●ところが中間層の雇用という視点からみれば、これは「損失」に他ならない。

テクノロジーと失業問題:自由貿易は不幸をもたらす? : 地政学を英国で学んだ

で、その一つの例として挙げられるのが「自由貿易」や「ロボット化」による雇用への悪影響だったりすると。特に弱い立場にある労働者たちほどその影響をモロに受けることになる。まぁ概ね仰るとおりでありますよね。だったらそんな(公正さを損なう)自由貿易なんてやめてしまえばいいんじゃないかな。


――話がそれで済むのだったら簡単だったんですよね。選挙なり、流行の革命なり、あるいは戦争なりで二者択一で結論を出してしまえば良かった。持つ者と持たざる者。その両者で殴り合いか話し合いで決着をつければ済んだんです。
しかし、現実には、戦いにすらならない。
だってグローバル化なりロボット化なりで生産された「安い商品」をより喜ぶのは、こうした弱い立場にある労働者たちなのだから。しかしそんな「安い商品」こそが回り回って最終的に労働者たちを追い詰める。いやぁ救えないお話ですよね。
結局、私たちは単純な二極化の世界だけに生きているわけではないのです。ロバート・B・ライシュ先生のお言葉*1を借りるならば、私たちは職の安定を失うことに怯える『労働者』であると同時に、安い商品を求める『消費者』でもあり、そして(年金に代表されるように)企業が成長してくれないと将来に不安を覚える『投資家』でもあるのです。
こうした点こそが、現状の民主主義と資本主義の問題を致命的に複雑にしているのであります。単なる二項対立であれば話はむしろ簡単だったんですよ。ところが強欲な大企業だけがすべて悪いわけではないし、無力な労働者たちが完全に無謬なわけでもない。


一般に諸悪の根源とされるコストカットの鉈を振るいまくる企業の経営者たちも、その意味ではそうやってコストを必死になって圧縮しているからこそ、結果として安い商品・サービスを提供できているわけで。確かに彼らは無情に低賃金労働と首切りを進める労働者の敵であります。しかし別の見方をすれば、多くの消費者から安い商品やサービスを求められたからこそ、とも言えるのです。
昨今の電力業界に代表されるように「独占より競争しろ!」という多くの人たちの攻撃からもそれは窺えますよね。私たちはより安い商品をひたすら求めている。それはつまり、関わる労働者たちの冷酷なコストカットこそを求めているのとほとんど同義なのです。まぁ自分が苦しんでいるからあいつらも同様に苦しむべきだという気持ちはまったく解らないわけではありませんけど、しかし不毛な話ではあります。
競争の激化の果てにあるもの。
安い商品と、雇用の減少。
これはかつて私たち自身が望んだ未来です。そしてその存在を許容し維持している現状もまた、私たち自身の現在進行形の選択でもあるのです。
もちろん今でも「労働者をいじめる悪どい企業だから」と組織的に、あるいは個人的に不買運動をしている人も居るでしょう。しかしそれが一般的であるなんて決して言えませんよね。まさに現状でブラック企業なんて言われる人たちが尚も生き残っていること自体が、そのことを証明してもいる。


私たちは資本主義の名の下に「血も涙もない効率化」を求めながら、しかしもう一方では民主主義の名の下に「温情ある公正さ」を求めてもいる。
だから低賃金労働や首切りを非難しながらもその結晶である安い商品やサービスを選ぶことをやめないし、地元商店街の壊滅を嘆きながらもamazonやイオンに通うことをやめないし、もっと給料を上げろと叫びながらしかし物価が上がるのは許せない。多少の気まずさは感じつつも、しかし、自分だけは良いだろうと正当化して。
それはぶっちゃけ右足と左足が同時に逆方向に走り出そうとしているようなものです。だから結局どちらにも一歩も動けないまま、ただただそのジレンマに困惑するしかない。しかもどこまでいっても一つの身体である以上、その二つを切り分けて分裂させることもできない。
私たち自身でさえも解答の出せない、あるいはその矛盾の存在自体を認めたがらない、効率と公正さの二律背反について。
かくして公正さを求める民主主義の声は、効率化を求める資本主義の声によって掻き消されていく。それは確かに「不幸」と言って良いでしょう。ただ、それが逆になった所でやっぱり「不幸」は別の形となってやってくる。


いやぁ一体どうしたらいいんでしょうね?

*1:『暴走する資本主義』より。