真にポピュリストだったからこそ「決められない政治」に陥った民主党

大衆に迎合しようとした結果、大衆自身が答えを出せない問題にもまったく答えを出せなかった人びと。


右手に民主主義を、左手に資本主義を掲げて - maukitiの日記
ということで日記を書いていて何となく考えたお話。民主主義と資本主義、効率化と公正さ、自分自身で適切な立ち位置も見えないまま分裂する私たち。それはまぁ答えの出すことがとても難しい問題であります。日本だけでなくほとんどの(民主主義)先進国のどこにでもある問題。
こうした私たち国民自身の迷いを見事に体現していたのが、あの民主党政権だったのかなぁと。


つまり、あの三年間の民主党政権が所謂ポピュリストな政権に「すら」なれなかった一因にはこういう理由もあると思うんです。彼らはまさに有権者の声のみに従って行動しようとした、だからこそ、有権者の間でも議論の分かれる問題に解答することができなかった。
増税減税、社会保障、教育、原発、TPP、安全保障、資本主義と民主主義、どれもこれも一致した結論なんて出せるわけがない。そんな誰もが全員一致で結論を出せる政策なんてほとんど存在するはずがなかったのに。私たちの間で交わされる議論を見れば解るようにどれもこれも一筋縄でいかない問題ばかりであります。いやむしろ、そうした問題だからこそ、解決されることなく現代にまで温存され続け、今尚解決の難しい議論として存在し続けているわけで。
彼らは自らの理想=綱領ではなく、そうした問題に『市民の声』を大義名分に動こうとした。そしてその『市民の声』は見事に割れている。かくして彼らは必然の結果として「決められない政治」に陥るのです。
その市民の間でも意見が割れる――故に重要な問題に直面した際、国民の間でも意見が割れる故に、正しく彼らは全く動けなくなってしまう。
http://www.asahi.com/politics/update/0218/TKY201302180282.html
そして新しい綱領。「生活者、納税者、消費者、働く者の立場に立つ」まぁそれは別にいいんですよ。
問題はその「生活者、納税者、消費者、働く者」の間で意見が割れた場合、そして大抵の場合割れてしまっている時、一体どうするのか、という所にあるんじゃないかと。前回の教訓を鑑みると、もし国民が決断を下せないのであれば私たちも何も決めません、と言っているに等しいわけで。まるで成長していない。
――でもまぁ見方によってはそれは一つの解答ではありますよね。何も決めない人たち。何か良いことをしない代わりに、悪いこともしない。「良いか悪いかではなく、決断しないことこそがデメリットだ」という身も蓋もない言葉はさて置いて。


個人的には、それじゃ政治家は一体何のために居るのかさっぱり解りませんけども。
国民の間でも意見の割れる問題を、如何に妥協させ解決するかが民主主義における政治家のそもそもの存在意義であるはずなのに。


彼らの「決められない政治」からの、「決断しない政治」宣言。
潔いといえばその通りなのかもしれませんよね。