中国は「歴史を終わらせない」ことができるのか?

資本主義が避けては通れない『不確実性』と『創造的破壊』という嵐に備えんとする中国。



中国の「大後退」(1/3) | JBpress(日本ビジネスプレス)
へー「大後退」ですって。まぁ確かに私たちの愛する欧米的な政治哲学からすると、先日閉幕した大会議を見ても後ろに進んでいると言うのは正しい指摘なのでしょうね。でも、当事者たる中国共産党の中の人たちが同じように考えているかというと、やっぱりそうではないだろうなぁと。

 習近平国家主席の前例のない汚職撲滅運動は、法の支配に基づく、より透明な制度への移行を象徴するはずだった。

 しかし、実際は、これまでに粛清された政府関係者は皆、習主席の政敵であり、この取り組み全体が同氏の権力基盤を固める役目を果たしてきた。

 この二枚舌は、現在中国で繰り広げられている言論と集会、結社、運動の自由に対する締め付けにもはっきり見て取れる。習氏は、中国を経済的に前進させようとする一方で、政治的には後ろへ引っ張っているように見える。

中国の「大後退」(1/3) | JBpress(日本ビジネスプレス)

それこそ習近平政権の当初から期待されていた「政治近代化」や「政治改革」も、別に彼らが進歩的な政治体制に目覚めたから始まったというわけでは決してなくて、むしろ必要に迫られたからこそ似て非なる行動として始まったに過ぎないわけですよね。


つまり――それこそ先達者である私たちが死ぬほど身に染みて解っているように――資本主義は途方もない大成長をもたらしてくれると同時に、必ずその反動=不景気がやってくる。
そうした景気後退は絶対に避けられないし同時にまたそうした停滞期は、成長期に行き過ぎた投資や雇用バランスを再調整を促すことで次の効率化や脱皮を促す雌伏期でもあるわけです。故にそれは資本主義を続ける以上避けられない『創造的破壊』という嵐なのです。


でもまぁやっぱりそんな達観したことを言っても、当事者にとっては冗談じゃないふざけるなという話でもあるわけで。長期的には私たちはみんな死んでる以上、そんな総体で見ればプラスなんていう話をされても困ってしまうわけですよね。とにもかくにも今が不景気なのはタイミングが悪かったからだ、なんて風に諦められるわけがない。
――しばしば「不景気になると中国ヤバイ」と恐怖半分期待半分で囁かれるのは、まさにこうした理由からなんですよね。
資本主義が絶対に避けられない『不確実性』について。現実に中国社会に蔓延する不正や腐敗への不満は、まぁ好景気の内は自らの未来に展望が持てるうちはまだ我慢できるでしょう。ところがそれが上手くいかなくなると、確実に抑圧的な官僚や汚職に対する怒りは湧き上がることになる。
日本でも欧米でも、それこそ世界中の歴史上どこでもありふれた風景。パンに困ればこそ、人々は不平等に怒りやがて政治に目覚めることになる。
もちろんそうした『嵐』を乗り切るには必ずしも民主主義が必要となるわけでもないのです。むしろ民主主義政治だってそうした嵐に遭えば、それこそ最近の世界中の先進国たちが晒しているように、選挙や世論による政治の不機能化をもたらすことも少なくない。それを独裁政権下で可能となる弾圧によって乗り切ろうとするのもまた一つの解答ではあるでしょう。国家の持つ暴力装置を適切に使うことで、その不確実性を乗り切ろうとする。天安門でもやったように、政治に不満のある奴は物理的にツブしてしまおう。
現在の中国が目指している政治の近代化って結局こういうことなわけです。政治への不満を逸らすために民主化を進めるのではなく、まったく逆のベクトルに舵を切ろうとしている。「正当化する法的な理由もなくこの権利を奪うことは、近代の国際的規範に明白に違反している」かどうかなんて関係ない。
故に彼らは、むしろ今だからこそ、言論や集会や結社や運動の自由を制限することで嵐を乗り切ろうと確信している。必要だからそうしているだけ。そこに是非などない。


民主主義許せば低所得層が選挙支配、香港長官が発言 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
香港行政長官「選挙を民主化すれば貧困層に決定権」 - WSJ
その意味で言えば、大きな話題となった香港長官の例の言葉ではありますが、確かにその言葉には一理あるのです。確かに民主主義を導入して「これ以上にうまくいく」保障なんてまったくない。それは現在の先進民主主義国家たちの不毛な政争を見れば明らかで、これ以上に悪くなる可能性も決して低くない。それならば中国共産党が輩出するエリート政治家や優秀な官僚たちに政治を任せた方がずっといい、なんて。

 ある意味「居直り」にも受け取れるが、こうした考えは中国の学者らの研究にも表れている。論文や書籍には「西側諸国が主導する民主主義のあら探し」が色濃く打ち出されたものもある。大学生が手に取る政治学の教科書も、「民主主義への懐疑」を徹底的に刷り込む内容となっている。

 ちなみにそれは次のように要約できる。

 「多くの学者が自由民主主義を唱えるが、1980〜90年代の発展途上国民主化は、西側諸国が想定した効果には至っていない。民主主義のモデルは様々であり、世界の国に2つと同じモデルはないのだから(他国に)追随する必要はない」

 「民主主義は最良の政治形態だとされているが、批判も多い。人類社会の規律は結局のところ少数精鋭主義により統治される。それはプラトンの『民主政治は衆愚政治に落ちる』という言にも明らかだ」

上海エリートの目に香港の民主化デモはどう映るのか 中国の政治体制こそが世界を主導する?(1/4) | JBpress(日本ビジネスプレス)

――ただ一方で、彼らが勘違いあるいは自己欺瞞に陥っているのは「民主主義は失敗ばかりで衆愚政治にすぐ陥る」だからといって、そんな別のやり方=独裁的なやり方の優秀さを証明しているわけでもないんですよ。
それこそもしかしたら、民主主義だからこそこの程度で済んでいる、と言えるかもしれないわけで。実際リベラルな民主主義を擁護する人たちはその点こそ利点だと思っている。


現代の中国自身が証明したように、(少なくとも短中期的に)経済成長するだけなら政治体制としての民主主義なんて別に要らない、のかもしれない。問題はそうではない時、経済の不確実性に直面し広く市民が不満を持った時、政治的危機の嵐による社会混乱を如何にして切り抜けることができるかこそが問題なのです。
その意味で言えば、民主主義政治は「それなりに」優れている制度だと言うことはできるのです。説明責任と政権交代によって政治不満による社会混沌を最小限に緩和することができるから。であるからこそ、リベラルな民主主義政治はここまで世界でも興隆しているわけで。


ということで、これから直面するだろう嵐において『中国独自の政治体制』の真価が問われ、一体如何にしてその危機を乗り切るのか乞うご期待であります。少なくとも共産主義が事実上脱落した21世紀の現代世界において、リベラルな民主主義という政治的イデオロギーに対抗できる資格が(十全ではないにしろ)最もあるのが現代中国であることは間違いない。
もし、この難題を上手く解決することができたのならば、つまりそれは歴史は終わらず、これからも続いていくことを意味するのでしょうね。フクヤマ先生の言うリベラルな民主主義政治は最終解答ではないのかもしれない。
果たして中国は「歴史を終わらせない」ことができるか否か。


みなさんはいかがお考えでしょうか?