まもって国際秩序!

文明の衝突』未満の世界に生きるからこそ悩ましい。



http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38645
ということで今尚行く先が読めないアメリカさんちのシリア介入議論についてのエコノミストさんちの叫びであります。「動け!動け!動け!」と、まるで汎用人型決戦兵器の中の人のようにガチャガチャやっているのでありました。

 本誌(英エコノミスト)は米国とその同盟国に対し、アサド大統領に化学兵器を放棄する最後のチャンスを与え、拒まれた場合には強硬に攻撃するべきだと主張してきた。攻撃の目的は、政権交代ではなく、抑止力の回復ということになる。オバマ大統領が自らの言葉を守ったという印象を与える必要があるからだ。

 行動を起こさなければ、アサド大統領のさらなる化学兵器使用を促すことになるし、イランや北朝鮮をはじめ、世界中の独裁者と核拡散国家に力を与えてしまう。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38645

まぁやっぱり難しい問題ではありますよね。これがより大規模な対立だったら話としては単純だったんですよ。それこそハンティントン先生が仰った『文明の衝突』のように「欧米対その他」という構図であれば話は少なくとも単純ではあった。
しかし、おそらく幸運なことに、そうした文明間の衝突は――『9・11』で一瞬顔を見せたものの――基本的には未だやって来ておらず、やはり冷戦以降のトレンドである、一国の内部あるいはせいぜい一地域の中での衝突や内戦こそが、現代起きる戦争のほとんど全てと言っていい。以前の日記でも少し書いた、フロイト先生が言う『ナルシシズム』こそが私たちを突き動かす。私たちはまったくの他者ではなく、限りなく身内に見られる「小さな違い」こそがより許せないのです。


さて置き話を戻して、では私たちはそんな内戦で見られる暴力や人権侵害を目の当たりにした際、一体どうすればいいのか? と聞かれると困ってしまうわけで。
まさにアメリカが直面しているのはこうした構図であるんですよね。解りやすくより大きく致命的な対立構造であれば動く以外に選択肢はなかったはずなのです。しかしシリアはおづ贔屓目に見てもそうではない。動くことも無視することもできる。だが、もし、ここでシリアの暴走を見逃せば、将来より大きな問題を抱える可能性は決してゼロではない。
上記エコノミストさんのように、介入支持派の主流意見の一つがこうしたお話であるわけですよね。幾らそこで見逃すことができる選択肢があるからと言って、座視することを選んでしまえば、ダム決壊の一穴となりかねない。結局『国際秩序』というモノは最終的に誰かがそれをパワー=軍事力を持って担保しなければまったく意味を持たない公共財的性質であるのです。いざそれを破ろうとする国が現れたとき、誰かがそれを抑止するという保険があるからこそ機能する。大量破壊兵器の使用禁止という価値観なんて、まさにその最たるモノであるわけで。別に天賦の規範なんかでは決してなく、多くの人びとがその規範を重要に思い、その上で誰かが自発的にその価値を護ろうとしなければ効果はないのです。
例えば私たち日本なんかは誰かが提供するそうした公共財に「ただ乗り」する立場にあるので最終的にはどんなことだって言えるものの、しかしアメリカにとっては絶対にそうではない。アメリカには私たちのように「誰かがやってくれる」というポジションは事実上許されていないのです。だって結局その国際秩序を最終的に維持する役割を担えるのは――現状の国連やヨーロッパがまったく動かないように――アメリカしか居ないんだから。また逆にそこで責任を果たすべき特別な立場に居る彼らだからこそ、国際社会で最も大きな発言力が保証されてもいる。


もちろんアメリカだって国際社会における一プイレヤーでしかなく、ついでに民主的国家である以上、どの国際秩序を維持するかは、当然彼ら米国大統領と米国国民の自己選択の範疇にあるわけです。例えば地球温暖化問題には彼らが積極的にコミットしようとしないように、当然の権利として、嫌なモノはまったく見向きもしない。そんな態度を私たちは批判することはできても、やっぱり究極的には彼ら自身の選択の自由でしかない。
――そして今、アメリカは西側的価値観の重要な一つである『化学兵器使用禁止』という国際秩序を、自らのリソースを消費してまで守る価値があるのかどうか、という瀬戸際に立っている。もしここでアメリカが動かなければ、まさに現状の地球温暖化問題のように、今後の世界において「化学兵器を使用しても事実上制裁は来ない(可能性が高い)」というメッセージを送ることになる。
それでも、アメリカがそんな規範や秩序はもう自分がコストを払ってまで護る価値はない、というのならば私たちに出来ることは何もありませんよね。それを黙ってみていることしかできない。今後は「そうした世界」でも生きていくことを考え対応していくしかない。その意味で、現代国際社会に生きる私たちは多くの点でそんなアメリカの最終的抑止力に頼った世界に生きているのです。もちろんそれはアメリカ自身の選択ではありますが、それと同じくらい他にそれをやってくれる人が居ないからこそ。
孤立主義へと回帰するアメリカ - maukitiの日記
前略ましてや帝国ですらない - maukitiの日記
アメリカは『正常』に戻るのか? - maukitiの日記
うちの日記でもずっと書いてきたお話ではありますが、だからこそ、冷戦以降アメリカは孤立主義に再び舞い戻るのではないか、という点が国際関係でずっと議論され続けてきたのであります。海外にまったく興味のない無知な田舎者と揶揄されるアメリカ人たち。それはつまり、政治家はともかくとして、しかし元々海外のことにそれほど興味のない――私たち日本を含めその他の国とほとんど変わらない――アメリカ国民たちという意味でもある。
だからこそアメリカの孤立主義への回帰という問題は冷戦以降ずっと存在する懸念であり、それこそアメリカの一国単独主義帝国主義的な行動と同じ位か、あるいはそれ以上にインパクトの大きい出来事なのです。




もしアメリカが、既存の国際秩序を守ることを放棄しようとした場合、私たちは一体どうするのか?




ちなみにそうした国際秩序=特定兵器の使用禁止条約が有名無実化した際に、それに対応する為に動き出すだろう、と見られている国の筆頭の一つが日本でもあるんですよね。能力と意志の両方を兼ね備えた国が近くにある日本は当然そうするだろう、と。
その意味で「核なき世界」なんかを訴える人たちは日本にも少なくありませんが、今回のシリア介入の議論に際して、正直その点はいったいどう考えているのかなぁと少し気になる所ではあります。結局の所、多くの国際秩序を支えているのは理念や善意でも、ましてや国際機関ですらなく、身も蓋もなく誰か=概ねアメリカが提供する軍事力こそが抑止力となっているのに。
かくしてイギリスさんちは自分は動かないくせに、必死に叫ぶのです。「このままで国際秩序の危機だ!」なんて。しかし個人的に現状を見ていて思うのは、そうした既存秩序というものが劇的な大事件で一気に崩れ去るのではなく、こうした足元の小さな事実から徐々に崩れつつあるの現状というのは、なんだかとてもリアルな状況だよなぁと少し納得してしまいます。


みなさんはいかがお考えでしょうか?