移民国家アメリカの新生

人種のるつぼやサダラボウルではなく、「二大人種の均衡」状態へ。



オバマ米大統領:移民法改正案の年内可決を−議会に圧力 - Bloomberg
どうにかこうにか債務上限問題というバカげた騒動を乗り越えたアメリカ政治さんちではありますが、こうして次にやってくるのもめんどくさい――でも興味深いテーマな「移民法改正」議論であります。
この辺はまた反移民な保守派の皆さん、だけでなく労働組合支持=安価な労働力の流入を恐れる左派の皆さんまでそれはもう左右入り乱れてのぐだぐだの展開となるんだろうなぁと。しかもこうした問題だけでなく、これって毎度御馴染みアメリカの伝統的な政治議論のテーマである小さな政府か大きな政府か、という問題までをも射程に入れてしまっているんですよね。
つまり、こうして移民の受け入れ基準を緩める(その上で不法移民の取締りを強化する)ということは、つまり必然的に政府の権限が強まるということでもある。移民受け入れの拡大は出入りをきちんと監視し、そしてきちんと雇用されてこそ意味がある。当然そこでは政府が責任を持って管理運営することで、やってくる移民の保証や保護などの手続きを厳格化しなければいけない。連邦政府の権限拡大。移民法の改正というのは必ず、こうした副次的効果があるわけです。そこで、まぁ当然予想されるのは、そうした政府機能の役割をできるだけ「小さく」するべきだという保守派の皆さんの反発であるんですよね。



ともあれまぁ特に不法移民の中でも、メキシコからやってくるヒスパニックな人たち、という現実はものすごく難しい問題ではあります。
神の摂理の如く少数派へと転落するアメリカ白人たち - maukitiの日記
共和党の憂鬱 - maukitiの日記
以前から少しずつ書いてきたお話ですが、こうした現在の南部国境を越えてやってくるラティーノな移民たちと、そしてアメリカという国家がこれまでずっと(紆余曲折ありなあがらも)ほぼ一貫して受け入れてきた移民とは、まったく違う存在であるんですよね。一般にアメリカが受け入れてきた『移民』というのは、それこそはるばる海を越えて、何千キロという距離を乗り越えて、つまるところ半ば故郷を捨てる覚悟で彼らはアメリカにやってきたわけです。故に彼らは一世代もすれば、等しく「アメリカ人」として社会にまた無数に存在する移民文化へ新たな1ページを加えていった。
しかしメキシコの人々にとってはそうではない。
この点で現在の、特にメキシコから押し寄せる移民たちというのはこれまでのアメリカにおける移民の歴史とまったく違う存在であるんですよね。それこそ彼らは、国境線の向こうとはいうものの、実際には数キロしか離れていない場所からやってくる。そこでは当然母国との社会的・経済的な繋がりを維持し続けていく。この構図はテキサスやカリフォルニアまで、南部国境沿い諸州の都市では既に固定化しつつある現状であります。圧倒的な多数派となるヒスパニックのひとびと。そこで日常的に話されているのは、もう英語ではなくスペイン語であるわけで。カナダやベルギーのように、アメリカは二つの言葉が地方によって異なる国家へとなりつつある。
まぁそれだけならば、他の他国語を用いる国が摩擦を抱えながらもどうにかこうにかやっているようになんとかなるかもしれない。ただここで更に問題となるのが、そもそもその土地はアメリカがメキシコから奪った土地である、という身も蓋もない歴史があるわけで。無邪気なアメリカ人はもう過去の出来事と忘れたことも、しかし被害者たるメキシコ人たちは今尚忘れていない。おそらく、もし仮に将来アメリカでヒスパニックの人々や文化が軽視されるような問題が生じたとき、必ずそれは「そもそもこの土地は自分たちのモノのはずだ」という声があがることでしょう。
南部のアメリカはアメリカ人だけのモノではない、なんて。
古今東西、隣国領土問題というのはこうした状況でこそ、最も解決が難しい問題となるわけで。アルザスロレーヌや、あるいはパレスチナなどなど。その地元住民が感じる愛郷心帰属意識といったものと、政治的な国境線の、致命的な乖離こそが。



こうして見ると、長期的にはアメリカさんが直面する文化的・政治的問題というのは、人種のるつぼやサラダボウルといった議論ではなくて、むしろ「併存する二大文化の均衡」という方向へ移っていくのかなぁと思います。
こうした構造は、やっぱりこれまであった伝統的なアメリカという移民国家という見方に、新たな姿を突きつけることになるのではないかなぁと。



みなさんはいかがお考えでしょうか?