より「あからさま」になる差別

「バカな声の多さ」ではなく「バカな声の大きさ」の変化。


仏法相への人種差別1か月で3回、インタビューで社会に警鐘 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
ということでロマ云々も含めて昨今のフランスさんちで盛り上がっている差別のお話。「サルのようにずる賢いトビラ、バナナを取り返す」まぁなんというか、見事に典型的で、まるでテンプレのようなあからさまな侮蔑ではありますよね。オバマさんですらありましたよね。黒人をサルだのゴリラだと批判するひとびと。ウホウホ。
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で、タイミングが良いのか悪いのか、そんな侮蔑ニュースを見ていて思い出したのが、最近の韓国さんちでも似たようなことを、しかも広告としてやっていたというお話。「(良かれと思って)サルに例えた」いや、まぁ、なんというか、ジョークならば笑えないし、本気だとすればもっと笑えないし。心底アレな人たちだなぁと素朴に思ってしまうのはきっと僕だけではないでしょう。
ともあれ、この二つのニュースを見てなんとなく思ったのは、実は二つは近い構図にあるんじゃないか、と。現代フランスが殊更に差別が強い社会になったわけではなくて、そして韓国が殊更に差別的な社会というわけでもなくて、結局のところどちらも「声の多きさ」が拡大したのではなくて、「声の大きさ」の方が拡大しているんじゃないのかと。
そもそも人種差別する人間なんてどこにでもいるんですよ。そこにもここにもあそこにも。現代の市民社会において大事なのは、そんなバカの発言力をどれだけ抑止できるかどうか、こそが重要であるわけで。その意味で言えば上記仏法相のニュースから読み取れるのは、よりバカの声が大きくなってしまいつつあるフランス、という風に見るべきなのかなぁと。

 国際機関で働く韓国人高官は、匿名を条件に英字紙コリア・タイムズにこう語った。「奴隷貿易時代のアフリカ大陸の歴史について基本的知識があれば、ヨーロッパの植民地主義者がどのように差別を正当化していたかを知っているはずだ」。「アフリカの人々をサル並みの知性と能力しかない人間以下の存在と見なしていたのだ。韓国人は自国の歴史や文化が他国から少しでも軽視されるとすぐに憤るのに、アフリカ人は憤らないと思うのは身勝手な話だ」

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その点で、ぶっちゃけ韓国さんちの悲劇というのは、あまりにも『反日』によって――その是非はさて置くとして――日本を侮蔑するのに「手慣れ」過ぎてしまっているのが根本的原因なんじゃないかと思うんですよね。何か以前もサッカー選手がそんなことやっていたニュースがあったりしましたけども、あまりにもそうした人種問題に際して相手を侮蔑するやり方が日常に馴染み過ぎているからこそ、それを他の人種に対してまで影響を受けてしまっている。日本への感情的な蔑視が当たり前すぎて、巻き添えで他に対するブレーキまで失っている。
だからこそ、反面教師として、他山の石として、個人的には対抗手段としての『嫌韓』はあんまりよろしくない方向だと思うんですよね。別に隣国同士だから仲良くするべきだとかそういうことではなくて、あまりにもそうやって特定の国家を見下し蔑視することは、必ず、間違いなく、他の国家に応対する時にまで悪影響を与えてしまうだろうから。なので韓国さんちを見ていると、なんとなく同情的な気持ちにもなってしまうんですよね。まぁもちろんその標的になるのはいい気持ちじゃありませんけども、しかし、ぶっちゃけそんなことやってたら絶対に「日本以外にも」同じことをやっちゃうんじゃないのかと。
日常の所作として表れるマナーとか礼儀ってそういうものですよね。日頃から意識して身につけておかなければ、いざという時に、あるいは不意の一瞬できちんと機能してくれない。


もちろん差別の問題を、そんなマナーとか礼儀だとか絡めるとお怒りになる方もいらっしゃるでしょう。ただ、差別を一夜にして消滅させることができない以上、現実的手段として漸減させていくにはやっぱりそこに行くしかない。それこそ、ならば人類全てに今すぐ英知を授けてみせることができない以上、あるいは内心までも変えることができない以上、まずは一歩ずつ表層からでも変えていくしかない。
――歴史が教えてくれるあからさまな差別が行き着いた最終的破滅を回避するために、私たちはとにかくそれをより「巧妙」にしていくことで社会の中で徐々に不可視化していくしかない。
個人的に社会における差別問題で思うのは、もちろん個人レベルで「生」のつきあいがあれば違うのでしょうけども、しかしよりマクロな社会全体という視点で見れば、こうした異邦人に対する警戒・嫌悪から生まれる差別感情って絶対に避けられないと思うんです。
なぜ彼らは朝鮮半島出身者をそれほど憎むのか? - maukitiの日記
この辺は以前の日記でも少し書きましたけど、必ずそれは既存の――しばしば偏見という形の――歪んだ先入観の影響を受けることになる。差別は人間の生きているところには必ずある宿痾のようなものなのです。
だから問題なのは、その付き合い方であり、そして抑止力なんですよ。いかにそれを表に出すことを許さない「空気」を作るか否か。
私たち日本でもしばしば称賛される欧州のすばらしき「差別を許さない社会」ってかなりの面でそのようにデザインされているわけで。つまりそれを外面に、直接に出さないことが最低限の良識であるということが根付いているという点でこそ。別に彼らの社会だって感情を完全に克服したわけじゃない。それでも、それをどうにかこうにか抑え込み、表に出すことを「許さない」ことに成功している。
まぁそれって私たち日本人が慣れ親しんだ『空気』という構図とかなり近いところにありますよね。だから私が日本人を「そこまで」人種差別的でないと思うのはこういう理由もあるわけで。ほとんど日常的に『本音』と『建前』を使い分ける私たちだからこそ。もちろん内心で言えば、島国根性丸だしで、韓国と同じく単一民族幻想が強い私たちは、それこそフランスとも韓国とも似たり寄ったりなレベルであるのは間違いないでしょう。しかし、おそらく幸運なことに、私たちは空気に支配された『建前』というブレーキがより強く働く社会に生きている。まぁだからこそより巧妙な形でそれが発露することになるんですが、それでも、相対的に見ればあからさまなモノよりはずっとマシでしょう。
こうした建前と空気を重視することで徐々に不可視化=巧妙化させるやり方は、少なくとも欧米などの世界の潮流で見る限り、方向性としては間違っていない。まぁ、それだっていつ、日本が現在のフランスのように、あるいは韓国のように「あからさまな」方向へ逆回転してしまうかのは解ったものではありませんけど。


もちろん巧妙な差別だってやっぱり差別だと言ってしまえば、確かにその通りなのです。しかしそれでも、あからさまな差別よりはずっとマシでしょう。
それこそ「サル」とか「森に帰れ」とか「バナナでも食ってろ」などの、いかにもあからさまなのはこうしてニュースになるものの、しかし「君は黒人にしては優秀だよね」だとか「君は黒人にしては働きものだよね」だとか言うのはニュースにすらならない。日本の例で言えば「在日にしてはまともな人だよね」とか「中国人にしてはまともな人だよね」とか「韓国人にしてはまともな人だよね」とか、でもこうしたモノだってまぁどう見ても差別であります。しかし、それでも、前者のようにあからさまに侮蔑の言葉を投げかけるよりはずっとマシでしょう。より巧妙になっていく差別意識
そのハードルを徐々にあげていくことこそが、差別感情が行き着く果てにある破滅に至らせないことの、たった一つのさえたやり方なんじゃないかと。



しかし現在のフランスはそんなブレーキを失いつつある。これまでの日記でも書いてきたように、まぁそれはやっぱり色々な理由があるのでしょう。経済問題や、社会保障問題、あるいは移民の世代変化や、同化政策の失敗などなど。
かくしてフランスは、より巧妙な差別から、よりあからさまな差別へと変化しつつある。それはやっぱり後退と呼ぶべきモノであるのだろうなぁと。差別感情が大きな声で叫ばれる社会。まぁやっぱりそれってどう見ても嫌な予感しかしませんよね。



みなさんはいかがお考えでしょうか?