育ってきた環境がちがうから

断絶する社会。


なぜアメリカの低所得家庭の子供はエリート大学に行かないのか | On Off and Beyond
少し前の記事ですけども、最近観測範囲にはいってきたので以下適当なお話。

一番の格差は「住んでいるところ」だった。大都市圏に住んでいるとエリート大学を受け、そうでないと受けない、という傾向があった。
アメリカのエリート大学は、全国共通テストの結果が上位の人には美麗で分厚いカタログを送っており、低所得家庭の優秀な高校生にもそれは山のように届く。しかしその手のカタログは全員に同じ情報を提供するものなので、「実は低所得家庭の生徒にとってはエリート大学の方が奨学金が豊富で安上がり」なんてことは前面に押し出されていない。
それでも、ニューヨーク、ボストン、ロサンジェルス、サンフランシスコなどの大都市圏では、経済的に恵まれない優秀な高校生を対象とした特別な公立高校やサポートプログラムが多々あり、そこで手厚い情報提供を受け、さらに同じレベルの優秀な生徒との切磋琢磨を通してエリート大学を現実のものとして感じられるようになっている。また、その手の大都市だとちょっと電車かバスに乗れば良い大学を見に行くこともできる。
しかし、それ以外の田舎となると、同じレベルの友達も少なければ、学校の先生もそんないい大学を出ていない、エリート大学なんて見たこともない、という状態になり、「ハーバード?スタンフォード?自分とは関係ないし」みたいな感じになってしまうのが一番の問題、と。

なぜアメリカの低所得家庭の子供はエリート大学に行かないのか | On Off and Beyond

まぁこの辺は以前から言われているお話でもありますよね。つまり、こうしたエリート大学へ行こうとしない子供たち=『学習意欲格差』とも言うべき問題において最も根が深い問題というのは、所得格差でも情報格差でもなく、その子供が育つ『文化』の違いにあるのだと。
勉強してエラくなること、をクールでないとする社会。
特にこの分野で研究されてきたのが、所謂アメリカにおける『黒人社会』であったわけで。昔から指摘され多くの対策がなされたものの現代でも尚存在し続ける「黒人と白人の間にある所得格差」その背景にあるのは、一体何のかといえば、それは結局『教育格差』であるのです。黒人と白人の所得格差を埋める為に必要なのは、身も蓋もなく、両者のテストの点の差を縮める必要がある。
さて、ならばその『教育格差』の原因となっているのは一体なんなのか?
――(あの悪名高き)遺伝子のせい? (教師たちの)人種的偏見? それとも(トートロジーになりかねない)貧困のせい?
『ヤバい経済学』の中で紹介されているローランド・G・フライヤーJr先生は、真面目に勉強することが周囲の反感を買ってしまう文化、そんな黒人社会に支配的にある「シロい振る舞い」への反感がその一つではないか、と考えているそうで。真面目に勉強する奴はイジメられる。勉強するなんてお前は白人になりたいのか、なんて。しかしそんな勉強の忌避という価値観は、そのまま「あまり良くない学校」へと続く道でもある。
かくして黒人と白人の学校格差は、教育格差を更に固定化させる。


さて、こうしたアメリカの事情をまったく他人事であると笑っていられるのかというと、そんなこと全くないんですよね。少し前に話題になったイギリスでの暴動騒ぎや、あるいはフランスの事情など、根本的な構図としては近いところにあるのでしょう。おそらく日本も例外ではない。
つまり、こうした経済格差・教育格差・情報格差というものに等しく背景にあるのは、『実感の格差』でもあるわけで。私たちが当たり前に価値があると確信していることでも、しかしその成功神話を(実体験として)信じていない人々にとってはそんなもの幻想でしかない。
「ハーバード?スタンフォード?自分とは関係ないし」
そしてそこから生まれた教育格差は所得格差に繋がり、その所得格差は「住む場所」まで色分けするようになり、そしてまた強固な環境要因が生まれることになる。アメリカでもイギリスでもフランスでも問題になっている社会や階層の分断ってつまりこういう事なのではないかなぁと。一部で言われるような社会保障漬けにされた生活を送る人々をただただ怠惰であると切り捨てるのは簡単なんですが、しかしそこにまずあるのは、そもそも真面目にやったって報われないではないか、という価値観の厚い壁があるのです。そしてそれは1から10まで全て勘違いでしかない、と言い切ることも出来ない。



上記リンク先のお話を見て真っ先に思い出したのがそんなお話。この情報技術が発達した時代だからこそ、周囲の環境から受け取る『生』な実感が支配的となる構図。そのようにして育まれた価値観あるいは文化のようなものによって、根本的な常識から分断される社会。こうした断絶は多文化社会とも切っては切れないところにあるのだろうなぁと。
まさに上記リンク先にあるように、幾ら所得格差を解消する為とはいえ、そんな「都市的」なやり方を押し付けることは許されるのか?


みなさんはいかがお考えでしょうか?