いつもの悲しくなるほど日本的風景

バランス感覚とかリテラシーとか清濁併せ呑むとか、なにそれおいしいの?


特定秘密保護法案 衆議院本会議で可決 NHKニュース
ということで特定秘密保護法案があっさり通ったそうで。しかし昨今の日本の政治風景であった「決められない政治」から見事に脱却してしまったよなぁと。「決められない」最近のアメリカ政治とは大違い。でも消費税にしろ、決めても決められなくてもこうして批判されるんですけど。

この中で自民党岩屋毅氏は、「複雑化する国際情勢の中で機微な情報を関係国と共有するためには、情報を保全する体制が整っていなければならない。国民の安全確保に必要不可欠な法案だ」と述べました。
これに対し民主党長島昭久氏は、「修正案でも秘密の範囲があいまいで拡大解釈の懸念があるなど本質的な問題は何ら解決されていない。重要な法案を強行採決するとは立法府軽視も甚だしい」と述べました。
そして採決が行われた結果、特定秘密保護法案は、自民・公明両党とみんなの党などの賛成多数で可決され、参議院に送られました。

特定秘密保護法案 衆議院本会議で可決 NHKニュース

まぁ先日の日記でも書きましたけども、個人的には何も無いよりあった方がマシだと思っているので、まずはスタートラインということでよろしいのではないでしょうか。最初からまったく隙のない完璧な法案作ることも、それはそれで無理なハードルではあるよなぁと。むしろ批判すべきなのは、『国家秘密の範囲』に関してこれまでまったく考えてこなかった私たち自身の問題でもありますよね。その公文書の公開する範囲と保護する範囲について。
だからこそ、こうしてその必要性が増した状況――法律という形での目に見える『建前』が必要とされる状況――にまで追い詰められてからいきなり議論を始めようとしたって上手くいくわけがなくて、結局その直近の必要性という大義名分に押し切られてしまった、というオチが適切なのではないかと思います。秘密の公開について、上限も下限も大きな関心のなかった私たちの現状がバレてしまった今回の騒動。


そもそもそうした議論に未熟な日本人、ということが露呈しただけな悲しくなるお話。


それこそ今回の法案も、「民主主義が死ぬ!」とか「戦争を出来る国にしている!」とか、なんだか悲しくなるほどに斜め上の反対ばかり多くて結局そこが足を引っ張ったんじゃないかなぁと。ちょっとそれは本気で味方を増やす気があるのかと心配になるほどであります。
笑ってはいけないバカッター - maukitiの日記
先日の日記でも書きましたけど、それってまぁ悲しくなるほどに身内ウケのみを狙った論理ではありますよね。(身内の論理に従って)アイスケースに入った写真をtwitterにアップして喜んでる人たちとどれだけ違うのかと。
エジプト デモ規制批判強まる NHKニュース
最近のエジプトなんかでは『デモ禁止法』なんかが通ったりしてるそうですけども、まぁそれを批判するのならばまだ解るんです。それは当然認めるべき普遍的な良識の一つであるとされているから。でも、そもそも、こうした重い罰則を伴う『秘密保護』ってそれはもう多くの国であるわけで。じゃあそうした多くの国々が「戦争をやる気があって」とか「民主主義を殺して」とか考えているのかと言うと、全然そんなことありませんよね?
――それなのに身内だけを見て無邪気に上記のようなことを言うものだから、結果として真面目に自由と秘密保護のバランスを取ろうとしている外の人たちを死ぬほどバカにした発言になっている。あるいはそんな恥を晒していることに気づいていない。
この辺は憲法9条とか軍隊とかでも同じ構図だと思うんですが、もちろんそれがまったく日本の『平和』にとって無意味だと言うつもりもありませんけども、しかしそれがあるから日本の平和が維持されているのでありなくなったら即日本は破滅だ的な議論をしようとするのって、ほんともう「それがなくても」平和を維持している他国に失礼な話ですよね。あるいは原発だってそれはもう世界中の国がごく当たり前に持っているわけで、その持っていること自体の悪意を論うのも、やっぱり失礼な話だよなぁと。
海外の彼らだって、その危険性を十分に分かったうえで、しかしその上で現実と理想とのバランスを取ろうと必死に頑張っている。だからこそ一部の海外から問題視されているのはそれが「成立した」ことそのものじゃなくて、その過程において未熟な議論しかできない私たち日本人の現状だというのに。

リテラシーが低いと、特にパターナリズム(庇護主義)的な傾向の強い日本では、問題が起きたら「即規制だ!」となりかねない。

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でも、一部の私たちはそうしたバランス感覚を取ろうとすることさえも否定してしまう。わずかでも危険があるなら、問題が起きる可能性があるならば存在価値ナシだ、という所に走ってしまう。ほんとうに重要なのは、単純に黒か白かではなくて、如何にして危険性と利益との上手い均衡点を見つけることだったのに。
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こうしたお話は右なアレな人たちだけでなくて、左のアレな人たちでも同じなのでしょう。議論なんてどうでもよくて、嫌いな存在そのものがないことにすればいい。完璧なあるべき姿か、まったく存在しないかで、その中間点がまったくない。
軍隊や原発や秘密保護や二次元ポルノや善き家庭やら。
どれもこれもびっくりするほどにパターナリズム。まぁいつもの日本的風景と言ってしまっては悲しくなるほどその通りなんですけど。