(アメリカ人の)魂のルフラン

理念の為なら(自由なんか)死んでもいい。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40567
偶に思い出しては突っ走る、彼らの古き良きピューリタニズムへの回帰衝動。

 米国はこれまでもずっと、自由を求める衝動と、干渉せずにはいられないというカルヴァン主義的な衝動との間で揺れ動いてきた。21世紀に入って、この振り子は干渉する方に戻りつつある。職場の安全においても、交通や公衆衛生、社会行動といった分野においても、細部に至るまで規制したいという衝動が少しずつ強まっている様子が見受けられる。

 米国と言えば、広い大地の真ん中を通る道路をオートバイで走って自由を満喫できる国というイメージがあるが、今日では地方レベルや連邦レベルの法規制がクモの巣のように張り巡らされている。例えば、かっこいい自転車にヘルメットを着けずに乗ったり、飼い犬を放したり、海岸で缶ビールのふたを開けたりすることを禁止する条令が米国には存在する。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40567

この辺はよく言われる米国論ではありますよね。禁酒法からマッカーシーなどなど、彼らはその理念=正義の為ならば結構あっさり自由さえ手放してしまう。それは建国以来ある政府からの束縛を出来る限り避けたい欲求である所謂『小さな政府』を目指す一方で、同時にまた彼らは『理念の共和国』を追求する遺伝子も持っているわけで。
建国以来ある強大なイギリス王政から脱却したいという願いと、そして同じく建国以来ずっと人工国家=様々な宗教や民族が入り乱れるモザイク国家であるアメリカがどうしても必要な国家統合の為に「あるべきアメリカ人像」というモノがあって欲しいという願い。そうした素朴な願いは一歩先に進めば逆にそれは他者への不寛容や攻撃性に結びつくわけで。
レッテル貼りと言ってしまっては身も蓋もありませんけど。


超大国たるアメリカを揶揄する言葉として、しばしば、彼らの世界中へ向けられるその「正義バカ」っぷりを笑うものがありますけども、でもそれって実は『外』に向かうモノではなく、『内』に向かう衝動だって同じなんですよね。
そんな感情的なレッテル貼り「自由の敵だ!」「民主主義の敵だ!」が外に向かえばアフガニスタンイラクのような国外戦争――70年前の日米の太平洋戦争もそういう要素があったと指摘されたりする――になるし、逆に内に向かえば上記のようなバカげた規制がまかりとおることになる。そうした内外への感情はやっぱりアメリカという国家の建国以来ずっと循環しているんですよね。でもやっぱりそれは上述したように、そうしなければ国家が維持できない、という要請から生まれるものであります。なんとなく社会に閉塞感や不安感が生まれると、再確認をしてみたくなってしまうアメリカ人たち。
故に彼らは「自由を求める衝動と、干渉せずにはいられないというカルヴァン主義的な衝動との間で揺れ動いてきた」のです。


古き良きピューリタニズムへの回帰。まぁ上記のように『内』に向いている間は他人事なので生暖かく見守ればよろしいのではないでしょうか。でもやっぱりそれは一歩間違うと容易に『外』へも向いてしまうんですけど。