(俺たちの俺たちによる俺たちのための)「歴史」を学べ

もしそれに内心の不満を表明することさえ許されないのであれば、あとは沈黙するしかない。



http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41408
ということで第一次大戦100周年だそうで。個人的にも第二次のそれよりもずっと興味深い、まさにグレートウォーなわけですけども、やっぱり私たち日本人にとっても他人事感満載なので、あまり興味は持たれませんよね。しかしドイツにとってはそうではなく当事者そのものにも関わらず、第二次大戦=ナチスという悪夢もあってか彼らはそこに興味を持たない、あるいはそのフリを崩さない。
――だって本当に興味を持って、独自の解釈をしたのならば批判されるのは目に見えているのだから。故に彼らは沈黙し忘却し、周囲の被害国たちは満足する。『歴史』を学ぶってすばらしいよね。

 第2次大戦の後、多くのドイツ人はその歴史を忘れようとした。ナチズムに対する自分の責任、そしてそれとともにあの戦争に関係するものすべてを、自分が失ったものも含めて忘れようとした。子供や孫が成長するにつれて、戦争を経験した世代は、かつての苦労に対する同情ではなく、つらい質問――特にホロコーストユダヤ人大虐殺)に関する質問――にさらされるようになった。

 その結果、多くのドイツ人は、つらかった経験の記憶を家族レベルでも国レベルでも共有することなく、戦時の罪を巡る議論に巻き込まれていった。

 ドイツ人の苦しみ――例えば、第2次大戦終結時に東欧から強制送還された数百万人の苦労など――を公の場で口にした人の多くは疎外された。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41408

ともあれ、このお話で笑うところなのは、イギリスの新聞がそれを言うところですよね。おまえがそれを言うのか感。少なくともドイツに歴史認識の「スタンダード」を押しつけ、それ以外の一切を排除してきたのは彼らなのにね。その癖今になって「もっと戦争に興味を持つべき」なんて言う。
愉快すぎて鼻で笑っちゃうお話。



「忘れつつある」ドイツ。まぁもちろんそうした部分がまったくなかったとは言えませんけど、むしろ選択の余地無くそう振る舞うしかなかった、というのが適切な表現だよなぁと。それこそドイツの中の人たちが対外的に歴史認識を「自分の言葉で」語ることすら許されていないというのは、一種のジョークのネタにすらなっているわけで。
そもそも『歴史認識』なんて各国違って当たり前なんですよ。別に勝者と敗者という次元ですらなく、勝者間にだって絶対にある。有名所では第二次大戦に関してのソ連と欧米間にあった対ナチスドイツ戦争観で、米英こそがヨーロッパを解放した(ソ連は裏口から殴り込んだだけ)救世主と確信する一方で、ソ連の方は独ソの戦った東部戦線こそがナチスをやっつけた決定的な主戦場(アメリカやイギリスは裏口から入っただけ)だったと確信している*1。あるいはフランスなんかは、我らは果敢にナチスに抵抗したのだとドゴール将軍は自己賛美していたし、あるいはインドからすればイギリスに「自由のために」徴兵されたおかげでインド人の生命を強制的に奪われた無意味な戦争でしかないし、あるいはアラブ世界からは両軍どちらも自分たちの都合しか考えないクソのような占領者たちの戦争に巻き込まれただけだったし、朝鮮にとっては悪魔日本と戦った独立戦争だった。


まぁそのように差異がありながらもそれぞれに歴史認識するのは自由ではあります。傲慢で一方的な欧米流の大戦観を忌々しく思いながらも、少なくとも敗戦国ではない彼らにはその自由があった。ただ一つの戦争観だけが、世界で唯一絶対のスタンダードなんかではないのだと。
――しかし、ドイツにはそんな自由あるはずなかった。だって負けたから。ナチスが劇的すぎていたから。敗戦国としてはあまりにも近くにありすぎたから。
彼らは西側戦勝国がありがたくも定めてくれた歴史認識以外を語ることは事実上許されなかった。「沈黙」と「忘却」というのは、つまりそういうことなんですよね。どうせ語るべき、語らなければいけない内容は同じなのだから、いっそ何も言わなくても同じではないか。
諦観の果てにあるもの。沈黙と忘却。
といっても第二次大戦後の後には、ご存じのようにすぐに冷戦構造がやってきたので仕方ない面はあるんですよね。というかそれこそが最大の要因かもしれない。少なくとも、同じ陣営に立ち、そしてあの両大戦で経験したような「総力戦」を再び戦うかもしれないと本気で覚悟――あるいは諦めていた人たちにとって、そんな価値観・歴史認識の相違を強調することは大戦略上避けたかった、というのは現在振り返ってみても一理あるお話であるでしょう。まさに最前線にあった西ドイツだからこそ、その内紛の種を持ち出すことを避ける以外になかった。欧州連合=ヨーロッパの平和の為にも、選択の余地などなかった。冷戦さえなければ、もう少しマシだったかもしれないね。
昨今のウクライナ問題からも見えるような、ロシアとドイツの心情的な距離が近いのはそもそもこうした「反主流な」価値観・歴史認識に共通性があったりするからなんですよね。




ちなみにこの辺のお話はほとんどそのまま私たち日本にも当てはまって、無邪気に「独自の」戦争観を披露する度に周囲から批判されまくる現状があったりするのでした。ドイツほど大人になれない私たち日本。ただこの辺は単純に両国の反省の度合いというよりも、むしろ冷戦構造下ではドイツほど周辺国からの圧力=包囲網の強くなかった点も大きな要因だと思います。それが幸運なのか不運なのかは解りませんけど。
もちろん某タモさんなんかのように、ぶっ飛んだ歴史認識を披露するのは論外でしょう。その一点では議論の余地はない。一方で「独自の」歴史認識があること自体は、やっぱりあって当然ではあります。だからといってそれを無邪気にぶっちゃけるのが賢明だとは限りませんけど。
いま、なぜ「歴史認識」を論ずる必要があるのか | ハフポスト
その視点で言うと、皮肉なお話ではありますが、ドイツと違い日本にとっては冷戦構造下よりも「今」の方がずっと『正しい歴史認識』が必要とされてもいるんですよね。中国台頭と米軍後退によって心もとなくなってしまったからこそ、私たちはオーストラリアや東南アジアに目を向け始めていて、今になって一層『歴史認識』の重要性は増すようになった。故に昨今より叫ばれるようになった。

しかしながら、現在と将来の日本にとって、歴史認識はなおゆるがせにできない課題である。中国が軍事大国化し、世界覇権への野心を公然と掲げるようになった今、日本は単独でこれに立ち向かうことはできない。日本の安全は、米国を始め、世界の国々からの支持によって初めて全うできる。そのためには、日本への信頼を確保することが必須であるが、それには20世紀前半の過ちに対する適切な対処が不可欠なのである。

いま、なぜ「歴史認識」を論ずる必要があるのか | ハフポスト

実際に冷戦時代のドイツは、ほとんど同じ構図から同盟国からの『正しい』歴史認識を受け入れたわけで。
ただ上記リンク先で語られていることは概ね正しいのでしょうけども、ここで問題なのは「そもそも一体誰が信用するに足る同盟国なのか」という根本的な点が浮かび上がってしまっているのが、現状の東アジア国際関係の愉快な所だったりもするんですよね。韓国が中国寄り姿勢を見せれば見せるほど、一部の人たちにとっては、益々「信頼される必要なんてない=歴史認識なんて知ったことではない」という方向へ向かってしまうギャグのようなお話。
いやまぁ笑い事じゃないんですけど。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:ちなみに単純に戦力投入比という意味ではソ連の言うことは概ね正しい。