(国家と宗教が)手を取り合って

まぁダメな方なんですけど。


サウディ・イラン対立の深刻度 | 酒井啓子 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
国内向けの宗派バランスによる処刑、というのは身も蓋もないお話だよねぇと。スンニ派ばっか処刑するのは体裁が悪いからあっちも死刑、なんて。
しかしまぁ解らないお話ではありませんよね。良く言われるお話ではありますが、もちろん世界全体で見ればスンニ派は多数派ではあるものの、しかし中東――特にペルシャ湾周辺国で見ればかなり拮抗状態でもあるわけで。彼らの危機感って元々強いものがあったし、更には『アラブの春』なんかを見たらそりゃ内心穏やかでいられるわけがない。

そもそも、サウディとイランの対立の根幹には、「王政」対「抑圧された者たちによる革命主義」がある。怖いのはシーア派ではない。抑圧されたシーア派が「抑圧されたものは立ち上がって抑圧者を倒していいんだ」というお墨付きを得て、立ち上がってしまうことだ。最初にお墨付きを与えたのは、イラン革命だ。それが、「持てる者=王政」のサウディの危機意識を煽った。次にお墨付きを与えたのが、「アラブの春」である。サウディ王政の目には、両方がごっちゃになって、シーア派=イラン=サウディの安定を脅かすもの、と映っている。

サウディ・イラン対立の深刻度 | 酒井啓子 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

地域的な宗派対立というよりは、この国内統治の意味が、やっぱり第一義的には重要でありそこを中心に見ていくべきなのだろうなぁと。更にはそんな国内統治の正統性の是非が、宗派の正統性にまで繋がっているのはまぁ端から見ている分には愉快なお話ではありますけど。
故に彼らは後に引けない。


うちの日記でも何度か書いたネタではありますし、また昨今のヨーロッパの移民難民騒動なんかでもそうですけども、やっぱり宗派対立に敏感になってしまうのは「目的」というよりは「手段」として恐ろしいからなんですよね。相手へ直接な攻撃・介入ではなく、間接的・非公式に浸透してくるもの。
実際それが単純に現代世界で見慣れないやり方かというと、やっぱりそうではないわけですよ。いやむしろ尚も主流ですらある。イラク戦争時代から広まったのPMCや、ウクライナ騒乱や本格介入前のシリアでロシアがやっていた手法でもあるし、そもそもアメリカやヨーロッパだってウクライナに対してNGOなんかを通じて浸透してもいた。。
彼らはロシア人・アメリカ人――少なくとも軍人や公的機関の関係者ではなく、故に我々の関知するところではない、なんて。



それこそヨーロッパが泥沼の戦争の果てに学んだように「宗派対立を国家間対立に利用するのはやめよう」という合意ができればいいのにね。しかし悲しいことに、たぶん、まだそんな広範な合意ができるほど血は流れていないし、あるいはそれを出来るだけの(国内宗教勢力に対して)強力な権限を持つ国家政府は表れていない。
――いや、正確にはフセインさんからアサド父やムバラクやらカダフィさんまで居たことは居て、概ね実現できてもいたんですけどねぇ。でも彼らはまさにそうした宗教勢力の後押しを受けた革命によって排除されてしまったわけで。もし、死ぬほどお節介で厄介な欧米世界の目さえなければ、まさにかつてヨーロッパが辿ったように世俗的な独裁者たちによって、中東版ウェストファリアが結ばれていたのかなぁと少し思ったりします。



みなさんはいかがお考えでしょうか?