我々が支払わなければならない民主主義のコストの典型例

「専門家の知見」と「住民は不安に思っているのだ!」の正当性の差はどれくらい?



市場 豊洲移転で調整 小池知事指示、築地も活用  :日本経済新聞
ということで築地市場議論は紆余し曲折しまくった結果、元の鞘に戻るそうで。序盤はともかくとしても、途中からは多くの人が「知ってた」と応じる案件ではありますよね。

 東京都の築地市場豊洲移転問題で、小池百合子都知事豊洲移転を前提に調整するよう都庁幹部に指示したことが12日分かった。豊洲に移転しつつ、「築地ブランド」を生かすため、築地も売却はせずに何らかの形で活用する案の検討を求めている。23日の都議選告示前にも小池知事が表明する見通しで、停滞していた都政最大の課題が動き出すことになる。

市場 豊洲移転で調整 小池知事指示、築地も活用  :日本経済新聞

時間という意味でも、金という意味でも、一体おいくら億円ムダになったんでしょうねぇ。


でも今回の件って、殊更に今回の騒動を悲観する必要もないかなぁとは思うんですよね。民主主義政治では見慣れたごく標準的な光景でもあるから。特に私たち日本では『3・11』のあと散々見た風景でしょう。日本に限らずアメリカでもヨーロッパでも、ほとんどどこでも起きている光景ではあります。珍しい出来事(不祥事)が起きるとメディアがそれを扇情的な文脈で繰り返し報道し、その無数の報道によって住民たちの怒りと恐怖は不合理なレベルにまで増幅され、その中で(流れに反する形で『冷静な』意見を示す)専門家の意見は良くて無視されるか悪いと攻撃される。
結局今回の騒動も無駄足に終わったわけですけども、しかしこれは一部住民の不安を汲んだ政治家として適切な振る舞いとも言えるわけで。専門家の意見と、住民感情に齟齬があった場合私たちはどうするべきなのか?
専門家の意見だけを採用し、住民の不安の声をまったく無視することが正しい振る舞いであると言うことも絶対にできないでしょう。それならそもそも選挙による政治家の存在する意義などない。かといって不安という感情だけを優先し、専門家の意見をまったく無視するのも間違っているのは確実です。つまり、こうした構図は正しく民主主義政治が機能しているからこそ起きる問題なんですよね。
(メディアからの刺激的なニュースで情報を得る)有権者の声はそのニュースの頻度や刺激の強弱によって決まり、それを真摯に聞こうとすれば必ず専門家の考える合理的な解答からは多かれ少なかれ遠ざかることになる。法で定められる安全基準が、しばしば過剰なものとなるのはこうしたバイアス=政治的配慮によって決まってしまうからでしょう。民主主義政治の政策立案では逃れられないジレンマでもあります。


私たちが日頃から薄々抱える内心不安が表出したような出来事があると、メディアが更に扇情的なニュースとして広め、そんなニュースによって不安を強化された人たちが表面化し「それ自体が」更なるニュースとなっていく。こうした不安の自己増殖の連鎖は、現代社会においてはどうしても避けられないモノでもあります。子供への犯罪*1、治安問題、環境汚染、原発等々。
――身近である故に多くの人たちが抱く不安は、いざという時の感情的反応の連鎖によって政治を動かすのも避けられない。だってそれが民主主義なのだから。


視聴率を求めて扇情的なニュースを流すのはメディアの罪。それを利用するのは政治家の罪。しかし根本にあるのはそんなメディアや政治家を求めてしまう私たちの罪でもある。
はたしてこの構図をうまくバランスを取りながら解決する手法を私たちは見出すことができるのか?





ちなみに覚えておかなければいけないのは、私たちがどうしても上記構図を避けられない一方で、こうした『不安の自己増殖』を意図的に狙って起こす人もいるんですよね。一般にそれをテロリストと呼んだりする。多大な流血を伴うテロによってニュースを作り、それを繰り返しニュースにさせることで生まれる恐怖心を使って自身の政治的主張が広まりやすい状況を作ろうとする人たち。今アメリカやヨーロッパで見ている光景そのまんまに。
住民不安を煽り、マスコミの報道を煽り、そんな平常心ではいられない狂瀾状況を利用して自身のイデオロギーを広めようとする悪人たち。
ザ・公共の敵。



がんばれ民主主義。