(信頼できる国家でないと)夢見る左翼じゃいられない

リベラル好きは自分に素直。思ったことを隠せない。でも理想と現実だいぶ違うから夢からさめなさ~い。


リベラルこそ「国家」を信頼していたのかも(古市憲寿)(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
うーん、まぁ、そうねえ。コロナ禍における日本社会を説明するお話として、かなり面白いとは思います。

 筋金入りの国家主義者がこうした統制を歓迎するのは理解可能だ。しかし「安倍総理ヒトラーだ」などと主張し、国家主義を警戒していた人までが「緊急事態宣言」や「ロックダウン」を待望するのはなぜなのか。

 もしかしたら、彼らこそ「国家」を信頼していたのかも知れない。過剰に安倍政権を警戒していた人には、「悪いやつら=実は賢いやつら=何でもできるやつら」という思い込みがあったのではないか。いざとなれば、安倍政権はすぐに戦争を起こしたり、徴兵を開始したり、国民を管理下に置くことができるとでも思っていたのではないか。

リベラルこそ「国家」を信頼していたのかも(古市憲寿)(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

まぁリベラルってそもそもそういう社会を目指しているのだしね。


(ここでリベラルの厳密な定義とは、というお話をしだすと日記がいつまで経っても終わらないので割愛)


昨今に雑なレッテルとして使われる「リベラル」な多文化でLGBTな人たちはともかくとして、そもそも論をすれば『左翼(政党)』というのはフランス革命以来の「経済的平等を目指す人たち」であるわけで。
その目標の為の大前提となっているのが、国家権力を使って豊かな人たちから貧しい人たちへ再配分する、という点であります。
――だからそもそも国家を信頼していなければ(少なくとも経済的平等を目指す)左翼ではいられないんですよね。
同様に、だからこそ彼ら彼女らが政府の瑕疵や独裁傾向により敏感であることもまた合理的ではある。
だってそれだけの権限を与えることが、彼らが夢見る理想社会の前提なのだから。


しばしばそうした人たちが理想として掲げるヨーロッパ・特に北欧諸国というのは、つまるところそういう社会でもあるわけでしょう。
個人の自由よりも、国家権力をより優先させて、経済的平等や善き社会を構築していく。
絶対的に正しいとは言いきれませんが、これも一つの政治的イデオロギーの形ではありますよね。
基本的には僕もそういうポジションではあるし(故に自称リベラルでもある)。




ここで問題となるのは、そうしたリベラルな人たちが言う「緊急事態宣言」や「ロックダウン」を可能にするより強権的国家を待望する声を正しく世論に届け実現できるか、という大問題であります。
上記でもそれがドクサイな国家主義と親和的であると述べられているし、そしてまさに実際に日本政府がかなり及び腰になっているように、
そうした行為ってかなりセンシティブでギリギリなラインの政策でもあるわけでしょう。


危機を克服する為に「より強権せよ!」という声が、もしも元々あるナショナリスト国家主義者たちの声と共鳴し増幅してしまったら……。
いやあ典型的な『地獄への道を舗装する善意の声』だよねえ。
だからこそ、そこには本質的なジレンマが生まれるわけですよ。
少なくとも自身が誠実なリベラルであろうとするならば絶対に。


強権が無ければ理想社会を実現できない。
強権があると独裁者によって悪いことまで実現されてしまうかもしれない。
そんなジレンマを解消するために、だったら政府は最小限に個人の自由は最大限に認めればいいじゃないか、というもう一つの伝統的政治イデオロギーに繋がっていく。


だからこそ、そうした呼びかけは細心の注意を払って慎重にやるべきなんですけども、コロナ騒動においてそれを安倍政権に要求している人たちを見ると……。
もちろんそこに善意があること自体は否定できませんけども、しかし劇薬を安易に口にしてしまっているようには見えてしまうかなあ。




カジュアルに強権を求めてしまうリベラルや左翼たちの声、そしてその危険性について。
みなさんはいかがお考えでしょうか?