リベラルな私たちの小規模な生活

メンタルヘルスか、それともソーシャルリベラルな社会正義の追求か。



人種差別的な友人のSNS、返信するべきかフォローを外すべきか - BBCニュース
面白いというか、特に自分のようなそれほど熱心ではないだろう大多数の(自称)リベラルな人たちにとってはまぁ切実で難しいお話だよね。
そして社会正義の実現が叫ばれる今だからこそ問われる問題でもある。

私は、何か行動しようと決めた。でも、クリックすべきなのはフレンド解除ボタンなのか返信ボタンなのか、アドバイスが欲しかった。

社会心理学者のキオン・ウェスト博士によると、何を達成したいかで答えは変わってくるという。

「自分自身のメンタルヘルス(心の健康)を守りたいだけなら、その人物に関わる必要があるとは言いません」

「とても人種差別的な真似をする人たちと繰り返し関わっても、良い気持ちはしないでしょう。恐らく、気分はますます悪くなるはずです」

人種差別的な友人のSNS、返信するべきかフォローを外すべきか - BBCニュース

カシア・ウィリアムズさんは、夫が人種差別を受けた経験から、フェイスブックで人種差別的な投稿を見かけた時は声をあげるのが重要だと感じていると話した。

「黙って見過ごすなんて、できません。私が何かを言うと、たくさんの人が聞いてくれます。『知識の共有をありがとう』と反応し、さらに他の人にそれを伝えている。それが大事だと思います」

「でも残念なことに、話を聞きたくないという人もいて、時間を無駄にしたと感じるようになりました」

ウェスト博士は、誰かの投稿に返信しても、ただちに人種差別をやめてくれるなどと期待しない方が良いと話す。

「インターネット上で議論すれば相手の偏見が減るなどとは、思わない方がいい。そういう研究結果も出ている。けれども、自分の行動を周りが快く思っていないと、その人は気づいたかもしれない」

「人を教育するにはさまざまな方法がありますが、どれも時間がかかるし、普通はインターネットでの怒鳴り合いは教育につながりません」

人種差別的な友人のSNS、返信するべきかフォローを外すべきか - BBCニュース

メンタルヘルスを損なうので止めた方がいい、だそうで。なんて身も蓋もないお言葉。
でもまぁ個人的にもこうした態度を支持し実践しているポジションではあるかなあ。


古くは5ch、今ではtwitterなどで毎日のように見かけるそうした愚かな人たちを啓蒙するような時間と労力を払うだけの価値はあるのか、と聞かれると大多数な私たちにとっては概ねNOだと答えるしかない。

それこそ相手に受け入れられるように丁寧に配慮した言葉を使って説得することは容易ではないのだから。
――まぁ世の中には(当日記にも何度かいらっしゃったことありましたけど)、上から目線で、汚い言葉を使い、挙句に人格批判を交えて「声を上げ」「教育する」という物凄く低コストでそれを実現しようとする愉快な人たちもいらっしゃるんですけど。……実現?
ということで上記博士の言うように、インターネット上の見ず知らずの相手にそれだけのコストを支払うことは多分今後もないと思います。


一方で、そうした敗北主義な黙認が結果として今燃えている根深い黒人差別の状況を生んできたのだ、と言われるとまぁ少なからず同意はしてしまうんですけど。
しかしそれはまず第一義的にはアメリカ社会のリベラルな人たちの責任であって、日本で暮らす私たちの責任の方が大きいなんてこと絶対にないわけで。
少なくとも現状のアメリカ社会に見えるような、根深く温存され続けている差別よりも緊急性が高いとはとても言えない。



ただ、個人的にこうした見ず知らずの相手よりも更にジレンマが深くなるのが、より親しく付き合う機会の多い身近な「友人や知人たちの場合」だと思うんですよね。
明らかに悪意を持っているならともかく、自身の差別行為に本当に無知で無自覚な知人や友人たちの姿を見てしまったとき、小規模な生活を慎ましく送る私たちは一体どのように行動すればいいの?
上記ウェスト博士にはそれこそ答えて欲しいよね。

  • それが仕事相手だったら?
  • 周囲に住む近隣住民だったら?
  • 自分の親族だったら?

こうしたジレンマって、以前ウナギ絶滅ネタを書いた日記でも少し書きましたけど、個人的には例え自分に身近な人物であろうと、いや、親しい人物だからこそ友人や知人と論争になってしまいかねない話題に安易に突っ込むのに躊躇う要因が大きいと思うんですよね。
でもそれも仕方ない、人はエヴァのみで生きるにあらず――じゃなかった、人はソーシャル・リベラリズムのみで生きるにあらず。


もちろん見ず知らずの人にも、知人や友人にも、近親者たちにも、カッコよく今流行りの「沈黙は罪だ!」とまるでイラク戦争の時のような子ブッシュ政権の様なことを言ってみてもいいですけど。
――あの時には、世界を敵と味方という二元論で見ることはよくない、とさんざん言われていたはずなのにね。
旗幟を鮮明にせよと叫ぶ正義の人びと。




もし敵か味方かというポジションからの『教育()』に失敗し、必然的に関係が拗れてまったら、多かれ少なかれ自分自身の生活にも影響を与えることになる。
もちろんそこで相手をきちんと正しく『導く()』ことが出来れば、この社会は小さいながらより善い方向へ一歩進むことは間違いない。
なんという自分の身銭を切ったギャンブル。
そうした過激なやり方をしている人たちを批判するつもりはまったくありませんけど、しかしそれを他の人たちが真似できるかどうかはまったく別問題でしょう。
差別の当事者でも喫緊に解消されなければいけない被害者でもない、それ以外の第三者な人たちから、自分の生活を秤にかけてまで追求するほど重要なことなの? という疑問が生まれてしまうのは不可避じゃないのかと。







かくして「政治や野球や宗教の話をするべきではない」という本邦社会にもある古典的な集合知に従うことになってしまう大多数の私たち。
うーん、これは古き良き伝統的価値観を重視するコンサバ。
結局オマエは似非リベラルでしかないと怒られてしまっては反論できない。


リベラルな私たちの個人的で小規模な生活での振る舞いについて。
みなさんはいかがお考えでしょうか?