一度失うと取り戻すのが難しいアレ

公共財ゲームも大丈夫な攻略本があればよかったのにね。



汚され、壊され、暴言も…マナーが悪すぎてトイレ撤去 お寺の住職が苦渋の決断「数十年悩まされました」 - ライブドアニュース
先日の通常日記でも書いたお話についてもう少しだけ。

 同寺は平安時代、833(天長10)年に建立。藤原住職は今から40年前の22歳のとき、先代からお寺を引き継ぎました。その当時から悩まされていたのは、境内のトイレを使うハイカーたちのマナーの悪さでした。

 境内のトイレは本来、参拝者用に用意していたものでしたが、「9割はハイカーの方が利用されます」。あるハイキングガイドには、同寺のトイレについて、登山コースにある最後のトイレスポットと紹介され、「トイレはここで済ませておきましょう」と利用を促すアドバイスが書かれているといいます。

 「ハイカー全員ではなく、ごくごく一部の方ですが、トイレを汚しても拭き取らず、そのままの状態で立ち去られます。山歩きの途中に便意を催し、必死になって歩いて来られ、間に合わずに便器の周辺まで汚してしまったという様子です。飛び散った汚れをそのままにするのは男女問わずです」

汚され、壊され、暴言も…マナーが悪すぎてトイレ撤去 お寺の住職が苦渋の決断「数十年悩まされました」 - ライブドアニュース

前回も典型的な『共有地の悲劇』と書きましたけど、その悲劇が教えてくれる教訓というのはつまるところ「信頼」の重要性でもあるんですよね。お互いが誠実に振舞うだろうという暗黙の了解があってこそ、その共有地を共有し維持していくことができる。その意味で、このトイレを寄付された方の『人の心を信じてたけれど、残念やな』というのは、やっぱり典型的な公共財ゲームな『共有地の悲劇』という感じで思わず納得してしまうんですよねえ。
まさに運用側が、人の心を信じられなくなってしまった故に、その必然の帰結として共有地は崩壊した。


それが破綻した理由は明らかで、まぁその信頼がどこまでいっても一方通行でしかなかったのが原因でしょう。公共財ゲームでは、その参加者たちがみんなで信頼を共有することこそが勝利の方程式でもあるわけで。
悲しいことにハイカーたちは、自分たちが同じトイレを使う同じハイカーという意識を共有できなかった。短期的に見れば――どうせ一回しか使わないのだからと――別にトイレを汚しても、放置して帰れば自分にはノーダメージだもんね。
かくして短期的利益を追求するプレイヤーによって一度不信が増大すれば、やがて誰もが同じように振る舞うようになる。


ということで原因を推測するのは簡単なんですけども、だからといって、じゃあどうやれば解決するのかと聞かれると困ってしまうんですよねえ。
いや、こちらも前回触れたように「有料化」という形にすればかなりの部分で解決するのは間違いないんですよ。しかしそれでは「共有地を共有する」というある種の美しい光景を復活させるのとはまったく意味合いが違ってくるわけで。
その点からすると、お寺の人たちがそれを選択しなかった理由も理解できるんですよね。
それでは市場経済規範ではなく社会規範としての「開かれた公共トイレ」という本来の目的とはまったく逸脱してしまうから。


一体どうすればハイカーたちに社会規範を守らせることができるだろうか?
――ここから更に議論をすすめると、有料化による市場規範あればよくそもそも社会規範が必要なのかという新自由主義的な問題もあったりするんですが、フクヤマや行動経済信者な僕はやっぱり社会規範は重要だと考える派かなあ。
ともあれその答えの一つとしてあるのが、モデルとしての著名人たちの振る舞いというのは確かにありうる話でもあって。
FIFA公式が日本代表のマナーを絶賛 ピカピカ更衣室に「ドウモ アリガトウ」(1/2 ページ) - ねとらぼ
今盛り上がっている日本代表の更衣室の掃除もそういう文脈でしょう(時事ネタ)。
ああした行為を偽善だと批判する人たちも一部に居たりしますけども、ただの自己満足というだけでなくやっぱり社会規範を醸成するのには確実に役に立っていると思うよ。


社会規範を共有することの価値について。
あるいは有料のお手伝いさん=市場規範があればそれでいい?
みなさんはいかがお考えでしょうか?