どのような最終状態を望むのか

話題のハーバードの授業の、功利主義と義務論なおはなし。


http://www.nhk.or.jp/harvard/lecture/100404.html
http://alfalfalfa.com/archives/391121.html
まぁ確かによくある話ではある。義務論と功利主義の葛藤。一体倫理と効率のバランスをどこで保てばいいのだろうか?
目的は手段を正当化するのか?
手段は目的を正当化するのか?
考えると夜も眠れないないので適当に流しておくのが楽に生きるコツだと思います。


さて置きこの人は「政治哲学」の先生らしいので、「政治」の部分を考えてみる。それは結局の所、どのような最終状態をどの位の時間の幅において考えるべきなのか、という事なんだと思います。
まず、私たち人間には能力の限界が存在するので、全ての状況を全て完璧に把握できる事は絶対にない。だから特に政治家は、限られた時間の中で、限られた選択肢を選ばなくてはならない。その辺を理解しないと、過去の日本は馬鹿だったとかドイツは馬鹿だったとかアメリカは馬鹿だったとかイギリスは馬鹿だったとか、歴史上の失敗を後知恵で簡単に言ってしまうわけで。よく言っててごめんなさい。そしてまぁ大抵の民主主義国家は「国民世論」に選択肢を縛られる。限られた手札で勝負するしかない。常にそんな両極の葛藤が出来るほどの選択肢があるわけではない。
こんな限られた選択肢の中で重要なのは、義務論や功利主義によって判断するのではなく、どのような最終状態がベストなのか考えるべきという事で。そしてプラスしてどの位の期間を念頭におくか。
一人を殺して十人を救う事によって、半年後一年後十年後二十年後にどんな影響が出るか。結果的に本当に少数を切り捨てた事になったのだろうか? どのスパンにおけるベストを模索するつもりなのか。


単純に義務論や功利主義による基準を絶対視する事は、政治的にはあまり意味がない。本当に重要なのはどんな最終状態を望み、それをどの位のスパンで考えるべきなのか、という辺りかなと思います。哲学で考えるよりは精神的にラクかもしれない。