政治権力と法

最近の政治権力者による法令に違反したりしてなかったりみんなが大騒ぎしている原因の一つとして、関係のあるようなないような話。
それは、近代国家においては、かつて宗教(神)が保障してくれていた政治権力は現在は「法」によって正当化されている、ということ。


さて、一部の無政府主義者達が言うように、政治権力はそれが民主制であれ独裁制であれ程度の差はあれども、一種の人民への収奪装置であり暴力装置なのは間違いない。まったく酷いもんです政府というものは。しかし、そんな収奪装置・暴力装置に正当性を与えているものは「法」である。近代以降の政治権力というものは法という手段を用いて構成員に干渉し、そして法を守っている限り、正義であると正当化される。
つまり政治権力は法という存在によって構成される。政治権力は、法をその組織手段として利用し、同時に法から正義を生み出す資源を提供されている。
こうして見ると圧倒的に政治権力なんかよりも「法」の方が強いように見えるけれども、実際は法なんてものには何の裏づけもない。支配的な政治権力によって援護され、それに反したものに対する暴力手段を準備できなければ、法的安定性というものは存在しない。*1


このようにして政治権力は法の拘束力を以って権力を維持し、逆に法はその強制的な性格を国家の制裁権によって維持している。つまり政治権力(者)にとって法は、車の両輪であって、どちらが欠けても機能し得ない。
こうしたシステムは最初にも書いたように、ウェストファリア条約以降に近代国家の目覚めとして成立した。かつてのローマ法から新たな理性法として、その国家システムの正当性の証明を世界観的に中立的なものに拠ろうと意図した。法こそが正義であると。


つまるところ、政治権力(者)が法に触れるような事をすることは、別に社会への規範的な意味で問題があるというだけじゃなく、その政府への正当性に瑕疵がつく事を意味している。だからこそ海外でも大きく報道される。なんかモラル的な意味で問題があるとかそういうレベルの話になってる気がしますけど。
当事者の方達はそれを解っているといいなぁというお話でした。

*1:だからこそ国際社会における(古典的)国際法には意味が無いと現実主義者の皆さんは主張する。国内と違って国際社会にはそんな手段が用意できないから。