「弱く虐げられている人々を救う」などの理想を掲げる人々が権力に固執してしまう理由

というわけで「べ、べつに特定の誰かに言っているわけじゃなくて、あくまでこれはいいいい一般論なんだからねっ!」ないつもの責任逃れ日記。
何故彼らは結局権力に汲々としてしまうのか、何故彼らの強権な振る舞いがより汚いと見られてしまうのか、なお話。

大きな目標に必要な大きな権力、という悲しい矛盾

「保守派の主導した圧政的な以前の政府とは違い、我々はこれまで虐げられてきた人々を救済するのだ!」と語る人々が実際に権力を握った後に多くの場合、その掲げる理想が高ければ高いほど、または大きな(本人たちに言わせれば)革命を成そうとすればするほど、そうした人々はいざ権力を獲得するとそれに固執し、よりそれを強くしていこうとする「権力の罠」に陥ってしまうありがちな構図。
実際そうした例は歴史上珍しい話ではない。一番良く言われるのはフランス革命後のジャコバン派とか、多くの共産主義国家とか、あるいはそこまでいかないにしても第二次大戦後すぐのイギリス労働党政権とか。最近だと某オバマさんも口さがない人々から言われ始めてきたようで。


けど考えてみればそれは当たり前の話で。なぜならこれまでの既得権益を破壊し新たな権益を創造する事は、それを単に維持する事よりもずっと大変な事なのだから。より大きな改革を求めることはつまり、より大きな権力が必要になる。そうでなければ彼らの謳う改革など実現しない。簡単に実現しないからこそそうした改革に希少性という価値があったわけだし。
その意味で、彼らが特別に悪意があったり特別に権力欲が強いからだ、という批判はあまり正しくない。
むしろ彼らのそんな善意や熱意、より大きな事をしようとする理想こそが歴史上しばしば、権力や勢力を強く追い求める衝動の産みの親となってしまってきた。確かにその中には本当に悪意のある人だって居たかもしれない。しかしそれよりはむしろ、彼らは真に理想を追い求めたが故に、そんなタキトゥス*1が言うような「あらゆる熱情の中でも最も醜悪」な権勢欲に囚われてしまう。彼らがそれまで批判してきた権力者たちのまるで後を追うように。
そしてまた批判していたはずの前任者たちと同じように、権勢欲のせいで歴史に残るような政治的愚行をも犯してしまうと。
まぁ彼らのそんな理想、いわば奇麗事が、皮肉にも(結果的にやってる事は一緒でも)より彼らの権勢欲の醜悪さを過度に強調してしまっている、という面はあると言える。