「賢帝による独裁>民主主義>愚帝による独裁」の一つの答え

微妙にタイムリーになってしまったけど、気にせず昨日の日記の続き。結局見えるのは政権交代に夢を持ちすぎた悲劇ですよね、というお話。

政権交代」に掛けた大き過ぎた夢

前回書いたように、大きな改革には大きな権力が必要なのは間違いない。だからしばしば大きな改革を為そうとする人々はより強い権力を、悪意と言うよりはむしろ善意から、求めてしまう。
結局の所、「政権交代が正しく起こるような高潔な民主主義であれば大きな改革だって進むに違いない」というのは幻想でしかないんですよね。
真実としてはむしろ真逆で、独裁的な軍事政権や一党独裁な方がそうした大きな改革・理想はずっと実現しやすい。何故かって当然そっちの方が強い権力を持って、大きな改革、痛みのある改革、人々に嫌われるような改革を強行しやすいから。そうした実現例が(善意からか悪意からかはともかく)かつて一つの理想社会と呼ばれた共産主義国家であったし、そこまでではない大きな社会福祉国家だったり、あるいは失敗したハイチと比較されるドミニカのような独裁的な環境保護政策である*1
政権交代」は大きな改革が進む目安などでは絶対にない。
これまで書いたように、むしろそんな正しく政権交代が起きる状況は逆に言うとその一連に続く政権の権力の弱さの表れでもある。もし本当に遠大な改革を実現しようとするのなら、そうした政権交代論者が嫌うような一党独裁の方がずっと容易いのだから。そしてそんな風に思ってしまった理想主義者達が以下略。
そして同様に一部の人々が夢見た二大政党制だって、極端な政策変化による政治状況の不安定化や二大政党の政策の同一化だってしばしば起こり得る、改革がより進むような、理想的な政治体制なんかでは絶対にない。


卵が先か鶏が先か、な話

さて置き、現在の日本のような、大きな改革をしようとして結局失敗しそうな人達に対して、100%全ての責任を押し付けようとするのは何と言うか気の抜ける話ではある。今の脱力系な状況は、そんな風に「期待をし過ぎた」人々と達成できると自信があり過ぎた人々による、彼ら両者の共演の結果であって、決してどちらが先に裏切ったのかとかそういう話ではないはずだから。


前向きにまとめると(政権交代に)「不慣れ」による失敗例あたりだろうか。嫌味な人からすれば15年前の失敗もう忘れたのかよ、とか言いそうですけど。

*1:『文明崩壊』(ジャレド・ダイアモンド著)に詳しい。同じ島を分け合うハイチは国土の1%しか森林面積が残っていない、一方ドミニカは28%である。これはハイチの無策に対して、ドミニカの独裁権力者がその権力と暴力を使って環境保護に努めた結果である、らしい。