「伝統」を愛する私たち

迷信と伝統という紙一重のお話。


栄養失調児が700万人のナイジェリア、最大の要因は「迷信」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

【11月5日 AFP】ユニセフUNICEF)の統計によると、ナイジェリアには栄養失調の5歳未満児が700万人いる。国別では、インド、中国に次いで多い。
 ナイジェリア国内では北部で特に深刻だ。北東部には、5歳未満児の42%が栄養失調という地域もある。
 要因には、サハラ砂漠に近いため暑く乾燥した気候のほかに、さまざまな文化的要素があるという。北部の4州で栄養失調に関するユニセフの調査に携わっている専門家によると、最大の要因は継続的に母乳が与えられていないことだという。

栄養失調児が700万人のナイジェリア、最大の要因は「迷信」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

うわぁ、ひどい話だ。おわり。
でもそれだけじゃ寂しいよね。空欄のまま出すより何か適当なことを書いておけば△くらい貰えるかもしれない。以下そんな適当なお話。

弱者は淘汰されない

よく日本でも、時代遅れの政治的な構造やニーズに合わない経済システムや古臭い法律、に対する批判がなされますよね。政権交代が言われ始めた辺りから特に。「何故こんなものが未だ生き残っているのか?」と。まるでそれらが絶えず進化していて、現在生き残っているのは最適者であるのが当然である、という進化論的な主張。効率的な進化がされていないのは、何らかの既得権益や悪意が介在しているからだ、と。


でもそれって何ら不思議でもない極当たり前の話ではあるんですよね。勿論そうした既得権益や悪意によっていることも多いんだけれども、しかし私たちは常に理性的な判断によって合理的な結論を導いているわけでは絶対にない。
別に上記のナイジェリアでの悲しい事例だけが示しているわけではなく、私たちは大抵場合大して悪意もなく、伝統や社会化や儀礼によって非効率で非生産的な行為や悪い規範を長期に渡って残置させる。歴史や伝統に依拠した関係が惰性のように長く続く、これまでのあり方を踏襲する、というほぼ全て人間社会に当て嵌まる習性。
変化を嫌っているからとか廃止することのコストを嫌っているとか、そうした言い方ももちろんできるんだけど、しかしもっとぶっちゃけて言ってしまえば、より計算された判断よりも習慣・伝統を重視してしまう。


アメリカのティーパーティー運動だって結局の所、そうしたことが根本にあると思うんです。
つまりオバマ大統領の改革によって、その是非はともかく、彼らアメリカ伝統精神である「自らを助ける」という社会が失われることを恐れている。それによって利益になるとか不利益になるとか、そうした問題以上に、彼らは歴史的な伝統を愛している故に抵抗運動がそれなりに支持されている。日本にだって結構ありますよね、合理的な判断を超えた所にある歴史や伝統によって存続しているシステム。(怒られそうなので敢えては言いませんけど)

彼らが失敗する理由

で、ナイジェリアの場合でもアメリカの場合でも日本の場合でも、しばしば、そうした(合理的でない)習慣・伝統を変えようとして失敗する。そんな人間の習性を無視してしまうから。
つまり、例えばナイジェリアの貧困状態にある母親達に「そうした行為は合理的ではないですよ」と単純に教えたところで問題は解決しない。別に彼女らは合理的な判断に基づいて、迷信が正しいと信じているからそんな魔術的な方法にこだわっているわけではないから。彼女らはそれが「伝統的な習慣」であるからこそ行為に至っている。それを「合理的ではない」と諭したところで、まぁ大した効果はあげられない。だからこそ長期的な、それこそ数世代に渡る、伝統と迷信を打破するための教育問題が必要とされているわけで。


故にアメリカでのティーパーティーの運動だって同じように、彼らに向かって「今更(原理的な)小さな政府とか時代遅れですよ」と言って解決するわけがない。彼らは合理的判断よりも、歴史や伝統にその価値を見出しているわけだから。そして更に問題を複雑にしているのが、政治的経済的な問題に対して、誰も100%の自信を持って正しい解答を提示することができないという点。私たちは「おそらくこうだろう」という曖昧な話しかできない。大きな政府小さな政府の議論ってもう何百年やっているんでしょうね。


それなのによく善意と理想に燃えた人が「不合理なものを一挙に変えてやる」と意気込み、抵抗の壁にぶつかる。別にそうした不合理は既得権益とか悪意が原因というだけで残っているわけじゃないのに。善意とか悪意の多寡の問題ではないのに。
かつてそうして合理性を究極まで追求した共産主義は結局理想でしか実現しなかったのに、また同じ様な失敗をしてしまう。合理的でない人間にシステムを合わせるんじゃなくて、合理的なシステムに人間を合わせようという悲しい努力。
私たちはいつだって合理的な判断よりも伝統に、とりあえず先ずは、価値を見出しているから。