近代化への生みの苦しみとなるか(二例目)

そういえばよく言われるイスラム教はともかくヒンズー教がどこに着地するのかまったく解りません、というお話。


http://sankei.jp.msn.com/world/asia/100720/asi1007201124002-n1.htm

 伝統的な階級制度カーストが根強く残るインドの首都ニューデリーで最近、異なるカーストの間で交際、結婚したカップルを親族らが殺害する事件が相次いでいる。「家の名誉を汚した」との理由による「名誉殺人」だ。経済発展に伴い都会では異なるカーストの男女が出会う機会も増加。だが、ヒンズー教に基づく結婚慣習は根強く、自由な恋愛をした若者たちが犠牲になっている。

http://sankei.jp.msn.com/world/asia/100720/asi1007201124002-n1.htm

よくある社会の移行期に起こるごくありふれた悲劇、辺りでしょうか。
彼らはそれまで信じてきた価値観の存在が危うくなっていると思うが故に、より過激な対応を採ってしまう。彼らの暴力性は彼らが持っている「強さ」の表れでは決してなくて、むしろ「弱さ」の証明である。一般的に言って、過激派や原理主義などの存在が意味する所は「そうしなければ(彼らの信じる何かが)衰退してしまう」という恐怖感なのだから。そしてまぁ大抵の場合、究極的な解決手段として「殺人」にまで至ると。


結局以前日記でも書いたネパールでの近代化への生みの苦しみと構図は一緒なんでしょう。今回のインドも前回のネパールも、どちらもヒンズー教国家なのは、まぁそういうことであると。


で、私たち人類にとって、真に自由恋愛が素晴らしい物であるかどうか、あるいはほんとうにヒンズー教の伝統に基づく結婚慣習が間違っているのか、という疑問がここで問題になる事はない。
彼らにとってはこれまでと同じように、今までどおりの価値観の安寧を維持する事だってできたはずで、しかし最早そうした贅沢をする事は国際競争上許されないと彼ら自身が気付いてしまった、あるいは気付かされてしまった。それはつまり欧米を真似て近代化を目指す国々にとっては、もうそれ以外に選択肢はない、という事でしかないと。


そう考えるとその戦いに勝っても負けても失うもの(彼らの伝統的価値観など)には大差ありませんよね。もちろん、その大小や自分から手放すのか強制されるか、の違いは当然ありますが。まぁなんというか皮肉な話です。私たち日本も通った道ではあるんですけれど。