愛国心の行き過ぎた先と、無くなり過ぎた先にあるもの

以前日記で書いた、国歌に特別な意味を見出す人たち - maukitiの日記と違いはない。そんなお話。

国旗の侮辱を禁じる新法を公布、フランス 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

【7月25日 AFP】フランスで国旗の侮辱を禁じる新しい法律が公布された。

 23日付のフランス官報によると、新法は国旗を破損した者や、国旗の品位を傷付けた者に1500ユーロ(約17万円)の罰金を科すと定めている。国旗を傷付ける行為の写真を発表した者は、その行為が私有地で行われたものであっても罰せられる。

国旗の侮辱を禁じる新法を公布、フランス 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

国旗を大事に思う人も、国旗を傷つけて悦にひたる人たちも、両者には大して差はない。彼らはどちらも国旗に何か重要な意味があると考えるからこそ、ベクトルはまったく違うにしても、本質的には同じ行動に至るのだから。両者はその重要性を示す一面の裏と表を構成しているに過ぎない。


さて置き、その上で今回のフランスの対応をどう見るかと言えば、個人的には「消極的賛成」辺りでしょうか。消極的にならざるを得ないのは当然よく言われているように、そうした愛国心な衝動の行き着く先はまぁ普通、かつての悲劇的な歴史を思い出してしまうから。
しかし、だからと言って国家政府としてそうした国家への反動を無制限に許容できるかと言うと、それは決してない。上記のような反対論が究極的・最終的に行き着く先を見て懸念をするように、おそらく賛成論でも究極的・最終的に行き着く先を見て懸念するんでしょう。いつか行き過ぎた個人主義は、民主主義や国家自体の分裂や解体を招いてしまうのではないか、と。
その意味で「どこか」で線引きをする必要は必ずあると思うんですよね。そして同時に「どこか」を決める綱引きこそが正しい理性だとも思うわけですけど。

探し物は「国民国家に代わるもの」です

結局の所こうした事が示しているのは、未だ「国家」という存在が世界における重要で主体なプレイヤーである、という事実なんだと思います。
もし、おそらくこの問題が日本でいう所の「県民歌」や「県旗」についてだったらこうした問題に発展するかと言うとそれは多分ないのではないかと。究極的にその「県」という概念が否定されても、その上位にある「国家」がその集団の帰属を保証してくれるから*1。しかし最終的に帰属するはずの国家が消滅してしまえば、それを保証するのは一体どういう存在になるというのだろうか?
まぁそれが欧州連合や、あるいは一部の人が夢見た世界市民・地球連邦だったら良かったわけですけど。しかし「まだ」そうではない。私たちは未だ国民国家というシステムから逃れられていない。
だからこそ、フランス政府としてはそうした国旗に絡む一連の騒動を無視できないんじゃないかと。


しかしこうした事がヨーロッパ統合に向かっているフランスで起きたのはとっても皮肉なお話ですよね。
彼らは国家という枠組みを抜け出して欧州連合という理想を実現しようとしている。しかし、それでも尚、国家の象徴の一部である「国旗」への問題を無視できない。そんな物から卒業しようとがんばっているはずなのに。他人事として見るとすごい面白いです。

*1:解りやすい物理的な例だと、私たちが何の疑問も無く使っているパスポート(海外での身分証明)の存在意義だったりするわけで