死刑議論に見る「人間の条件」

最近また例の人の騒動で盛り上がってる死刑論のおはなし。


個人的には、賛成派と反対派の間で隔絶しているのは「死刑」に対する認識ではないかと思うわけで。
一方は「システムが人を殺す」事に純粋に怒りを覚えていて、もう一方は「どうしようもない人間を排除するシステム」と見ている。その意味ではおそらく、普通どちらも相手側の論はかなりの部分まで同意している。

  • 死刑に賛成する人だって、「人を殺すことは悪い事だ」と認めるだろうし
  • 死刑に反対する人だって、「どうしようもなくクズな人間は社会から隔離する必要がある」とは認めるだろう

それでも尚、両者の意識と結論は隔絶している。


つまりここで問題となるのは、論理的に証明されるような、死刑による効果効用や社会的影響ではない。
死刑という行為によって挑戦を受けているのは「人間としてどうなのか」という曖昧で時代と共に移り変わる「人間の条件」*1ともいうべき物についてであって、どこからが非人間的な行為で、どこまでが人間的な行為と呼べるだろうか、という問題だと思うんです。
それをもって一方は「死刑だなんて人間として終わっている」と語り、もう一方は「そこまで非人間的な行為ではない」とも思っている。


両者はここで隔絶している。
一方は死刑という制度を、かつてあった肉体的苦痛を伴う拷問の一種やそれと同種の一つと見なしているから、死刑という拷問は(一般には拷問は最早禁止されたのだから)同じく止めるべきだと思っている。
しかしもう一方はそうは思っていない。おそらく死刑賛成派の人びとは、上記のような葛藤をほとんど理解できない。彼らは死刑を拷問ではなく「社会的に殺すシステム」を運用しているに過ぎないと思っているから。
こうした構図故に、しばしば、反対派は賛成派のことを彼らの判断をまるで狂気の沙汰のように非難してしまう。人間的にどうかしてる、と。確かに反対派の人びとの基準からすればそれは正しいものの、同時にその基準故にその心情を理解もされない。


結局の所、私たちの共同社会の運営上避けられない「どうしようもないクズ」をどのように扱えば人間的な扱いの許容範囲内で、どの一線を越えてしまえば非人間的な扱いとするのか、な問題なんですよね。
死刑や終身刑の議論をする上で必要な判断基準は「我々の」総体としての道徳基準である。だからその意味で、世論だけを見て決めればいい、というのは乱暴ではあるけども概ね正しい。


まぁそれを進歩的なヨーロッパな人びとに、アイヒマン*2の子供たちだ、なんて批判もされてしまうわけだだけど。あなた達は自らまったく考えることなく人を殺すシステムに手を貸している、と。

*1:別に某ハンナ・アーレントさんとは関係ありません

*2:ナチス時代に、特別に悪人だからではなくて、単にまったく従順に上層部からの命令のままに、ユダヤ人を強制収容所に送りまくった人