私刑を残酷だと笑える私たち

彼らを無知や遅れていると笑わないと安心できない自称賢い私たち、なお話。


http://medianewssokuhou.blog133.fc2.com/blog-entry-327.html

―中新網、Times of India―
17歳の少女が全裸で8キロも引きまわされ、その間100人を超す男たちから携帯で写真を撮られたり、
体をさわられるなどのわいせつ行為をうけるというできごとがインドで起こりました。

事件が起こったのは4か月前のことで、少女は他の部族の男の子を好きになったからという理由で、私刑にあったということです。
また村民が撮ったという動画はネット上に「adivasi girl(先住民族の女の子)」という題でアップされ、広まっているといいます。

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うん、まぁ、ひどい話ですよね。おわり。


文化相対主義とか文化普遍主義とかよくわかりません

さて置き、こうした話が人類の悲劇として特筆されるような事例として数えられるのかと言うと、悲しい事にそうではない。
今回の場合のようなインドのカースト制に何らかの正当性があるかどうかはともかくとして、もしそこに何か文化的普遍性を見出すとすれば、いつだって社会統制の究極的手段は「暴力」である、ということでしかない。
この少女は彼らの集団に存在する社会規範・規則を破ったが故に罰せられた。そしてその罰には(私たちからすればあまりにも短絡的に)肉体的暴力や恥辱を与えるという手段が用いられた。
何故そんな簡単に私刑を? とそれを見た私たちは純粋に疑問を抱いてしまう。


結局の所、近代国家に生きる私たちとこのような行為に走る残虐で無知な彼らに何か違いがあるのかと言われれば、そこにしかない。その「暴力」という手段を持ち出すまでにどれだけの猶予があるか。
私たち日本もそうであるように、法治国家な民主主義社会では、民主的に法制化された規範・規則への服従がほとんどイデオロギー的に強調されている*1ために、私たちは普段、公的暴力が私たちの社会秩序の奥にも存在しているという事実はあまり言及されない。しかしそれは単純に見えていない、あるいは見てないフリをしているだけであって、実際に厳然としてそこに存在している。
民主主義社会でさえも彼らと同じように全ての権威を究極的・最終的に担保しているのは「暴力」である。


この点で彼らも私たちも本質的な残酷さという点では、それがより大きいか小さいかという違いしかない。まぁ勿論その程度こそが重要であり、それを「理性的」と自画自賛したりするわけだけど。
そしてその残酷さをオブラートに包む目的で単純な肉体的な「暴力」ではなく予備段階として、政治的社会的に抹殺したり、経済的困窮に追い込んだり、嘲笑したり人格攻撃を正当化したりするわけだ。そして本当にどうしようもない時にだけその最終的解決手段が用いられる。インドでのいきなり私刑に走るような彼らとは違うから。私たちは彼らとは違うから。


うわー、そんな彼らと較べたら私たちの近代社会って人間にすごい優しいですよね! 

*1:この構図はインドのカースト制の下での人々にも、皮肉にもほぼ当て嵌まる。