「正しい歴史認識」という幻想

今話題の「日韓併合条約発効100年に関する菅直人首相談話」について。いえ、別に私なんぞが何か中身や正当性など語れるわけもないので、その周辺から適当に考えたこと。


朝鮮併合100年に関する菅総理談話(雑感) ( アジア情勢 ) - 国際情報センター - Yahoo!ブログ

私はこういう談話の発出の正統性に大きな疑問を持っている。請求権問題の蒸し返しのおそれが指摘されていたが、そういう次元ではない疑念をもっている。
第1:こういう談話を推進している人は、「正しい歴史認識」と言うものがあり、政府がそれを表明すべきであると考えている。
しかし日本はリベラル・デモクラシーの国である。思想・信条の自由はリベラル・デモクラシーが成立するための必須の条件であるが、各人の歴史認識は各人の価値観や信条体系と不可分に結びついている。
日本には唯物史観も皇室史観も自由主義史観もある。そういうなかで、国家権力がある史観が正しいと表明することは思想・信条の自由に反する。場合によって思想弾圧につながる。

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思想弾圧までいくのは確かにある種の極論ではあるけども、言いたい事は理解できなくもない。「正しい歴史認識」なんてものは幻想であると。
おそらく別に韓国が飛び抜けて悪質なわけでもなく、そして日本が飛び抜けて不誠実なわけでもなく、そんな事とは関係無しにはじめから両者の溝は埋まらないと。


しかし個人的に気になったのは、

仏でアルジェリアの植民地支配の評価を巡って政治的な論争が起きたとき、シラク大統領は「仏の歴史は単数ではない。複数である」と述べた。これがリベラル・デモクラシーの国の指導者のあり方である.

このあたりはすごい面白いですよね。さすが帝国主義の本場は言うことが違う。
どんだけフランスは小賢しい、間違えました成熟した、国際関係のプレイヤーなのかと。そりゃこんな老害、間違えました経験豊か、ばっかりなヨーロッパの国際政治に幻滅してアメリカに皆脱出してしまいますよね。旧世界を捨てて新世界を創造しようと。まぁそんなアメリカさえも、まだ外交が子供な日本からすれば充分悪徳、間違えました現実的、なわけですけど。


人の数だけ無限に広がる未来と、人の数だけ無限に広がる過去

さて置き、引用先にもあるような「正しい歴史認識」というものは、常に一貫した存在、というわけでは絶対にない。
私たちは常識的に、現在のことを変化する流れと考えているものの過去についてはそう考えていない。過去は固定され不変不動のものであると。しかしそうではなく、私たちは過去の出来事についても常に再解釈と再認識を続けている。少なくとも私たちの意識の内部においては。
つまり「一貫して正しい歴史認識」などというものが存在するわけはないし、その意味では私たちは常に自分の記憶や思い出や歴史を修正してきた。その時の価値観や常識や道徳や正義の名の下に。これは正しかったがあれは間違っていた、と。昨日の非常識は今日の常識であり、昨日の常識は今日の非常識である、と。
故に歴史「認識」である。


それらと、引用先にもあるようなソ連での「正しい歴史」への編纂作業などと何か違いがあるのかというと、おそらくほとんどない。
かつてのスターリニストたちがソビエト大百科事典を何度も書き換え、「正しい歴史」の実現を目指したように、現在だけでなく過去の歴史さえも絶えず変化していく。私たちは個人的な記憶においても、また社会集団でさえもその度ごとに、何か過去に起きた特定の事件に重要性を与えたり剥ぎ取ったり、そして更には都合の悪い恥ずべき事件として抹消しようとさえしたりする。大抵は自分の都合のいいように。


その意味でよくある「歴史修正主義者」の振る舞いと、「正しい歴史認識」の押し付けには大して差が無い。彼らはどちらも自分に都合の良い歴史認識を相手に押し付けたいだけなのだから。



まぁなので個人的によく見る、そんな両者が喧嘩しているなんかもうある種の八百長じゃないよエンターテインメントだよ的な、正しい歴史認識などの論争を見ると「うわぁ・・・・・・」な気分によくなります。それは、いつ、どこで、だれの、正しい歴史認識なのかと。そして「みんな」の正しい歴史認識だ、なんてそんな自分勝手で傲慢なこと言えないから。
そう考えると国家の長である人がそれを広く公に表明するのは別に間違っていない。彼はその地位通りに私たちの総意を代弁している。それが本当に正しいか間違ってるかはともかくとして。