楽観主義と悲観主義のはざまで

一昨日の日記を書いてて思った、現代の中国に対する「楽観主義」と「悲観主義」について。そんな単純な括りでは囲えませんよね、なお話。


ノーベル平和賞授賞式、劉氏の家族ら欠席の見通し 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

【11月18日 AFP】ノルウェー・ノーベル研究所(Norwegian Nobel Institute)のゲイル・ルンデスタッド(Geir Lundestad)所長は17日、今年のノーベル平和賞に選ばれた中国の民主活動家、劉暁波(Liu Xiaobo)氏の家族や親族が、来月10日にノルウェーオスロ(Oslo)で行われる授賞式に1人も出席できないとの見通しを示した。

ノーベル平和賞授賞式、劉氏の家族ら欠席の見通し 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

まぁなんというか中国さんの現状打破主義とも言えるような振る舞いは色々と考えさせられるお話ではあります。
こうした中国の現代世界のシステムへの挑戦的な行動を前提として、例えばより深い互恵関係目指すことについての反対の立場から「中国に阿るなんて売国行為だ!」なんてその楽観的なポジションを批判をされてしまったり、あるいは逆により深い対立関係を採るべきだという姿勢への批判として「中国が暴走するなんてほとんど杞憂に過ぎない!」とその悲観的なポジションを批判されたりするわけですよね。
でもそれってそんな単純な話なんだろうか? というのが今日の日記の主旨であります。
そうした中国に対する(もう暴発しないだろうという)楽観的な見方と(いつか暴発するだろうという)悲観的な見方って、ヨーロッパの歴史的な19世紀に蔓延した楽観主義と20世紀に蔓延した悲観主義の、ほとんどそのまま逆の意味で通じるのではないだろうかと思うんです。


つまり「中国はいつか暴走してしまうに違いない」という現在の悲観的な見方は、ほとんどそのままかつて19世紀に流行った楽観主義的な社会改良論「人間の努力によってより善い世界になっていくに違いない」な楽観的な見方に通じているんじゃないのかと。それはいつか中国が民主化の圧力によって何らかの外的・内的な騒乱状態を引き起こすに違いないという、ある意味での、楽観論。僕も個人的にはこの立場に賛成するけども、しかしこのまま中国の将来は確実に民主化勢力が優勢するとは決まったわけではないんですよね。もしかしたら、まさに中国指導部たちが夢想しているように、民主主義国家よりももっと強力な国家システムを新たに生み出す可能性だってゼロではないはずで。
そんな現在の中国への悲観論は、ある意味で、必ず民主主義や資本主意的思想が勝利するというかつての楽観論に根本を置いているんじゃないのかと。


だから逆の意味で現在の中国への楽観論も、ある程度の部分まで、かつての20世紀にあった悲観論に根本を置いているんじゃないのかと。
かつて1970年代にアメリカの国務長官だったキッシンジャー共産主義全体主義に対して「対立は今後も永続し続いていくだろう」と言ったように、それは当時における西側の大多数の外交・政治に関係者が持っていたのは「共産主義陣営は強力であり永久不変である」という共通認識だった。故に彼は「対立一辺倒ではなくより妥協を目指すべきである」と、まさに悲観論的に、唱えたりした。勿論これが全てではないにしてもある程度までは、彼らは自らの勝利にそこまでの自信を持つことができずに悲観したからこそ、より妥協的な態度を志向したとも言えるわけで。まぁ結果的に共産主義全体主義への幻想は完全に間違っていたわけだけども、でもそんな偉そうなことは私たちの後知恵でしかない。同じことが現代の中国に対するポジションでも言えるんですよね。
そんな現在の中国への楽観論は、ある意味で、必ずしも民主主義や資本主意的思想が勝利するわけではないのではないかというかつての悲観論に通じているんじゃないのかと。故にまさにキッシンジャーが言ったような「対立一辺倒ではなく現実的な選択を」と唱えると。


以上中国に対する楽観論とか悲観論って、突き詰めていくとそれって最終的に逆のポジションになるのではないか、という思考実験的なお話でありました。