「なんじ謀殺を犯すなかれ」を信じる人びと

またもやアメリ銃社会のお話の続き。よく語られる、アメリ銃社会とその自己防衛精神、について。


銃乱射で勢いづく銃支持派の狂った論理 | アメリカ | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
ということで昨日も引用した上記リンク先で語られている「(無謀とも思える)勇気ある行動をとった青年」のように、実際、アメリカでの銃を所持する意義って自分の命を守る為に云々という受動的な理由よりも、むしろ万が一の時に自らの正義を実践する為に銃所持をしている、ということだと個人的には思うんですよね。実際オバマ大統領もこの事件の追悼式での演説で、そのような彼らの「勇敢な」行動を称える演説さえしているわけで。


この銃所持の問題が単純に数字上の便益から解決できないのは昨日の日記でも書いた、そうした彼らが信じる正義の実践に関わる問題でもあるが故に、ではないかと思うんです。彼らは銃を所持していることによって正しい力を正しい時に行使できると信じている。彼らは本心から正しい行いこそを望んでいる。
ならばその推奨されるべき「正しい行い」は何か?
というとそれは聖書の戒律にある、(私たちがよく誤解しがちな)「なんじ殺すなかれ」ではない、「なんじ謀殺を犯すなかれ」という戒律を彼らはほんとうに重視していて*1、故に彼らが忌み嫌っているのは正確には「殺人」ではなく「謀殺」こそを避けようとしている。そこで強く憎んでいるからこそ、同時にそれを阻止することにより重要な価値をも見出している。そのために必要な精神と手段を提供する為の概念としての銃であると。
彼らは謀殺を防ぐ為には殺人を厭わない。


だからアメリカの銃社会について語る時、自己防衛云々の話は微妙にズレていると思うんです。彼らは自分を守る為というよりもむしろ、自らの周囲を守る為にこそ、その銃を欲している。万が一の時に自分の出来ることをやりたい。そうした英雄的な行為がほんとうに美しいと信じているから。
それって、純粋で、単純で、ある意味で美しくもあり、また正しいのでしょうけども、なんともまぁ暑苦しいお話であります。でもよく言われる「正義バカ」なアメリカの国家像って大抵そんなもんですよね。つまり彼らはそんな市民レベルでもそんなんだからああした、規格外な、国家ができあがったんだと僕は思います。
そんなアメリ銃社会から見る、端からするとめんどくさくて暑苦しくて、でも単純で、そして純粋な、アメリカさんちのお話でした。

*1:現在では数少ない例外を除いて、殆ど多くのユダヤ教キリスト教諸派では「なんじ殺すなかれ」ではなく、「なんじ謀殺を犯すなかれ」と解釈している、らしい。『「戦争」の心理学』デーヴ・グロスマン著、より