「ねぇねぇ足切断されちゃったけど今どんな気持ち?」騒動の先にあるもの

そんなマスコミに対して多くの人が素朴に怒ってしまう構図についてのお話。


痛いニュース(ノ∀`) : フジテレビ、NZ地震で足切断のサッカー少年に「もうスポーツできないって、どんな気持ち?」…2ちゃんねらー激怒 - ライブドアブログ

今までのスポーツ歴などを優しい口調で聞いた後、「右足を切断すると言われたときのどんな気持ちだったのか?」「スポーツを今までやってきたのにもうスポーツができなくなったことについて、どんな気持ちか?」というような質問を行ったのだという。

このあまりにも被害者の心情を考えない失礼な発言に視聴していた人からはすぐに怒りの声が上がった。当然のように2ちゃんねるでもスレッドが立てられ、Twitterでもこの情報を拡散しようという動きが起こっている。

痛いニュース(ノ∀`) : フジテレビ、NZ地震で足切断のサッカー少年に「もうスポーツできないって、どんな気持ち?」…2ちゃんねらー激怒 - ライブドアブログ

えーまぁ個人的にはそこまで盛り上がるようなことか、と聞かれるとかなり微妙な所ではあります。何というか視聴者のその怒りは、よくある「子供に見せたくない番組に怒るおかあさん」な構図に近いんじゃないかと。これって単純に解りやすい被害者が居るからこうして盛り上がってるだけで、でも実はより致命的な報道の瑕疵というものは、別に現実に存在しているわけで*1。つまり、そうやって踏み込んで行うからこそ、正しい報道機関のあり方であるとも思うから。
実際、こうした報道機関のジレンマな話って昔からある話ではあるんですよね。戦争報道や飢餓報道、有名どころでは『ハゲワシと少女』のようなピューリッツァー賞の写真が巻き起こした論争*2にあるように。報道とその人間性をいかにしてバランスを取ればいいのか?


結局の所、こうした問題を敷衍していった先にあるものは「彼らメディアに、ほんとうにそんな資格があるのか?」という疑問なんだと思います。
確かにそれは私たちの持つ矛盾した潔癖症による面も大きいとも思うんだけど、しかしそれ以上に単なる口実に過ぎないのではないかと。権威への正当性についての疑問。今の中東のあれと似ていますよね。報道という物は政治のそれと同様に、良くも悪くも、元々かなり暴力的なものなんだから。だからこそ第4の権力とも言われてきたし、その業界へ高い規律性も求められてきた。まさに昔の偉い人が「権力のもとではペンは剣より強し」と語ったように。
故に、今回のようなあまり筋のよくない議論においても、メディアに対するそうした怒りは盛り上がってしまう。といってもこれは日本だけの話というわけでもない。『オールドメディア』なんて呼ばれてしまうような、これまでの権威構造の正当性への世界的なゆらぎによって。


「彼らマスコミに、被害者の彼女へぶしつけな質問をぶつける権利なんてほんとうにあるのか?」と。

*1:一昔前の『ガソリン値下げ隊』とか心の底からバカみたいだと思います。

*2:1994年、ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている『ハゲワシと少女』という写真でピューリッツァー賞を受賞。写真はスーダンの飢餓を訴えたものだったが、1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズに掲載されると同紙には絶賛と共に多くの批判が寄せられた。そのほとんどは「なぜ少女を助けなかったのか」というものであり、やがてタイム誌などを中心に「報道か人命か」というメディアの姿勢を問う論争に発展した。ケビン・カーター - Wikipedia