原発議論について雑感

ボクハ、スイシンハデモ、ハンタイハデモ、アリマセンヨー、ロボコワクナイ。



痛いニュース(ノ∀`) : フランス 「日本人はこの状況でも逃げずに仕事をし、TVではお笑い番組を放送している。明らかに異常」 - ライブドアブログ
しかしそれを言い出したら、『日本』でも『原発』でも『仕事』でも『アニメ』でも『家族』でも『お金』でも『健康』でも何でも一緒なわけで。何故貴方は「そうしたもの」に価値があると考えているのですか? と。

また、日本滞在経験があり、いまはパリに住むフランス人女性はこういう。

「東京は福島からそう遠くないのに、サラリーマンは“まだ大丈夫”という意識で働き続けている。我慢強いのかもしれないが、仕事は生きるためのものでしょう? 命を落としてまで働こうなんて誰も思わない。放射能の危険にさらされても逃げないなんて、欧米人の感覚からは信じられません」

痛いニュース(ノ∀`) : フランス 「日本人はこの状況でも逃げずに仕事をし、TVではお笑い番組を放送している。明らかに異常」 - ライブドアブログ

まぁ仰る事は理解できない話ではないです。彼らには私たちが感じている執着・愛着という「捨てられない理由」を理解できない。でもそれは当たり前の話ですよね。だって彼らと私たちは違う人間なんだから。違う物を見て生きているんだから。何を基準にして、何に価値を置くかはその人が決めるんだから。


例えば上記の例「フランス人と日本人」だと当然のように皆さんそうした差異を受け入れるんだけども、しかし今話題の「原発推進vs反原発」の議論だと、なぜかそうならないのが個人的には不思議なんですよね。賛成反対どちらにも「何故理解できないのか理解できない」と語ってしまう人が発生する。
原発を使い続けることで得られるものと、原発をやめる事によって得られるもの。確かにその焦点は一見同じ「電力」にあるんだけど、実は両者が重視しているものってまったく別のモノじゃないかと思うんです。それは国力であり経済であり幸福であり仕事であり生活であり弱者であり安全保障であったりするもの。同じ事について語っているようで、何が重要で何がそうでないかについて実は全くそのコンセンサスが成立していない。お互いがお互いに自分の基準で勝手に語っている。
故に議論が(特にネット上では)不毛なものになっている。それは上記例と同じような、見ているもの・価値観・基準の違いにこそあるはずなのに。
それは一見同じ物を較べているように見えて、しかしその実「スシとケーキ、どっちが美味しいですか?」って聞くようなもので。その単純な比較って無意味なんじゃないかって個人的には思います。もちろんイデオロギーの話を完全に切り捨てるならそれもできるんでしょうけども、そんな議論なんてほとんどないわけで。



その上で何故、上記のようなフランス人の言においては多くの人が「違う価値観」と理解できるのに、「原発vs反原発」の構図においてそれを理解できない人が多いのだろうか?
ということを考えた場合「フランス人のような外人には理解できない」という感情がそれを助けていると思うんですよね。彼らと私たちは違う人間なのだから理解できなくても当然だろう、と。でも今回の原発議論ではそうはならない。何故自分の意見が相手に理解されないのかを理解できない、だって同じ日本人で同じ大震災を目の当たりにした「同じ人間なのになぜ?」と考えてしまうから。
なまじ私たちは日本人というその共通性がある為に、余計に「私と彼らは違う人間である(違う価値観である)」ということを理解することができない。


例えば推進派と反対派どちらにしても日本人の多くの人たちにとって、ドイツなどの一部ヨーロッパ諸国が原発やめようとしているのを理解できるだろうし、反対にインドやアメリカが原発をそれでも尚推進しようとしていることについて、そのどちらも理解できると思うんですよね。「彼らには彼らの考え方があるのだろう」と。彼らは違う人間だと解っているから。
でも何故か同じ集団の中で、同じ日本人だとそれに失敗してしまうんですよね。似ている人々同士であるからこそ。
そしてこう言ってしまう「何故同じ人間なのに理解できないのか?」と。あるいは説得や議論さえすれば相手が同じ結論に達すると確信してしまう。そんなことあるわけないのに。

それを言うことはつまり一方的な勝利宣言であり、議論の放棄でしかない。人間性という名の下に「みんな」という圧倒的多数が同意しているのだから*2、その論拠については自明であると宣言する事なんだから。数字や論理や感情を全て超越した先にあるもの。その基準に定まった一つはなく、故にそれは何にでも適用されてしまう。とにかく「人間として間違っている」と。それじゃ議論もクソもありませんよね、っていう。

議論において最強過ぎる禁じ手 - maukitiの日記

その意味で、以前書いた「人間性の罠」に陥ってしまう事態が起こるのは、私たちが互いに違う人間だからそう考えてしまうからじゃないんですよね。むしろ両者が似ているからこそ、近しいからこそ、何故かその違いが理解できなくなってしまう。私たちは同じ人間だと思っていたのに、と。
いやぁ人間ってほんとめんどくさいですよね。